郵便配達は二度チケットをもぎる

演劇未経験者が、駄文をこねます。

「逢いにいくの、雨だけど」感想:iaku

悲しみにも、救いにも逃げない

f:id:mAnaka:20181203133334j:plain★★★★★★★★★☆ 9点

あらすじ

小学生のとき。幼なじみに負わせたケガのせいで、うちの家もあっちの家も、ままならなくなってしまった。あの事故で何もかもが歪んでしまった。あんなにひどいことになるなんて。あれから長い月日が経ち。あの子は、あの人はどうしているだろう。ときに振り返ってみたり、ときに立ち止まってみたり。それでも日常は進行する。「人生」という尺度を実感出来る歳になって、ようやくわかった。あの事故にまとわりつく罪や遺恨は、きっとどこまでいっても終わりはない。

40歳を手前に、過去の過ちに向き合う「許し」の物語。iakuらしい絶品舞台です。

<ネタバレ>人生とはグレーなモノである

ヒサちゃん」は、アラフォーになっても夢を諦めなかった絵本作家。苦心の末に書き上げた『名探偵・羊のメーたん』が大手出版社の新人賞に選ばれ、ようやく絵本作家としてスタートをします。しかし、『羊のメーたん』は小学校時代に、一緒に絵画教室に通っていた「ジュンちゃん」がデザインしたキャラクターをトレースしていたことが分かります。無意識でやったとは言え、良心の呵責に耐えられなくなった「ヒサちゃん」は「ジュンちゃん」と20年ぶりに逢うことを決意します。

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ヒサちゃん」が「ジュンちゃん」に逢おうと思ったのには、もうひとつ大きな理由が…。絵画教室の郊外活動に行った際、じゃれ合いから「ジュンちゃん」の左目にガラスペンを刺してしまい、それが原因で「ジュンちゃん」が片目を失明するという事故を起こしてしまっていました。「ジュンちゃん」は事故をキッカケに引っ越し。家族ぐるみの付き合いだった2家族は、それ以来交わることなく長い年月が経過していたのでした。

久しぶりの再会にぎこちない二人。しかし、加害者として生きてきた「ヒサちゃん」とは逆に、「ジュンちゃん」はその状況を受け入れて、平凡ながら幸せに暮らしていたのでした。ただし、だからこそ “ごめんね” “いいよ” で割り切れない感情が溢れてきます。単純に「許す」わけにもいかず、ただ「許さない」わけでもない…。

別れ際、「ヒサちゃん」は「ジュンちゃん」に絵本作りを二人で行うことを提案します。ストーリーが得意な「ヒサちゃん」は絵作りに悩んでおり、「ジュンちゃん」と共作を作りたいと。しかし、サラリーマンとして普通に生きる「ジュンちゃん」はその申し出を断ります。おそらく、二度と逢うことはないであろう二人は、それでも名残惜しそうに別れます。

ラストシーン。「ジュンちゃん」はいまでも同居する母親に、「ヒサちゃん」との再会、絵本作りに誘われた件を嬉しそうに語ります。一方で、「ヒサちゃん」も事故以来、疎遠になっている父親と歩み寄りを始めます。少しだけ、再生へのほのかな光を感じさせながら、舞台の幕が下ります。

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珍しく抽象的な舞台で、「事故の前後」と「現在」で、時間軸を入れ替えながら物語が進行していきます。「粛々と運針」と似たような構造になっています。

ヒサちゃん」「ジュンちゃん」の2人の物語だけではなく、それぞれの家族のストーリーも挟み込まれており、非常に重厚。それゆえに、様々な登場人物のココロの動きが胸を打ちます。

もっと大きな絶望(ジュンちゃんがまともな大人になれていない等)や、安直な救い(二人が絵本作家として活動していく)に逃げることも出来たと思います。しかし、人生とはそんな極端なモノではなく、とてもグレーで、だからこそ魅力的であるということを、iakuは教えてくれます。ぜひ人肌恋しいこの季節に見ていただきたい1作でした。

「ゲゲゲの先生へ」感想:前川知大

詰め込まれた水木しげるへの愛

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★★★★★★☆☆☆☆ 6点

あらすじ

 平成六十年。子供が生まれなくなって人口の激減した日本。人は都市に身を寄せ合い、田舎は打ち捨てられ植物に飲み込まれている。都市は権力による抑圧的な社会で、貴重な妊婦と赤子は政府の管理化に置かれている。

 

 ある廃村に、根津という男が一人で暮らしている。根津は半分人間、半分妖怪の半妖怪。かつて村人がいた頃は、彼の周りに妖怪の姿があった。しかし村人が減り、国中で子供が消えていくのと平行して、妖怪たちも姿を消した。根津は、なぜ自分は消えないのかと考えつつ、何かを待つかのように十年以上、独りまどろみの中にいる。

 

 ある日、根津の前に都市からきた若い男女が現れる。都市は突如現れた謎の怪物によって混乱しているという。女は妊娠しており、混乱に乗じて逃げてきたのだ。

 

 根津と二人の会話を通じて、根津がなぜ半妖怪になったのか、なぜ妖怪たちが消えてしまったのか、そして都市に現れた怪物はなんなのか、次第に明らかになっていく。

 

そしてその怪物は、三人のいる廃村に向かいつつあった。 

 現実と虚構の境界を描き、人間の本質をあぶり出す手腕に長けた前川知大さんが、“あっちの世界”を作り出した水木しげるの世界に挑んだ意欲作です。

<ネタバレ>“ある”という現象について

 この舞台の主人公となる根津(ねず)は、「ねずみ男」と「水木しげる」を合わせたような存在。ねずみ男と同様に、半分人間・半分妖怪の半妖。水木しげるにとって、ねずみ男が一番のお気に入りだったことは有名ですが、その中途半端さが“こっちの世界”と“あっちの世界”をつないでいるワケです。根津が語り部になるのは必然ですね。

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 根津は廃村に現れた若い男女に、 半生を語り始めます。なぜ根津は半妖になったのか。村にいた妖怪たちはなぜ消えてしまったのか…。

その中に、水木しげる作品が短編のように挟み込まれます。

・根津少年の通過儀礼として登場する「丸い輪の世界」

・根津がはたらく詐欺の一つとして登場する「錬金術

・街を破壊する怪物として登場する「コケカキイキイ

どの作品も人間の愚かしさをドライに、でも優しく見守る目線が色濃く出ています。その思想は舞台でも存分に発揮されていました。

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今回の舞台で根底に流れているのは「“ある”という現象」についてです。

昔は村にたくさんいた妖怪たちも、人間が減るにつれて姿を消していきます。妖怪の存在を認識してくれる人がいなくなるため、妖怪も存在できなくなってしまうのです。そうして、半妖の根津だけが廃村に取り残されていました。

舞台の最後に、若い男女が妖怪たちの気配を感じ取ることで、彼らも帰ってくることができるのですが、この「観察者」という存在を強く感じさせます。

前川さんが生み出す舞台も、観客という「観察者」がいないことには存在することができません。“こっちの世界”と“あっちの世界”の境界を描いているという意味では、妖怪も舞台も大きく違わないのかもしれません。

 

東京公演は終わってしまいましたが、全国を巡るツアーは続いていきます。この不気味で優しい境界が全国に広がることで、舞台/妖怪たちも続々と湧いてくるかもしれませんね。

 

舞台に登場した原作はこれで読めます
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「野がも」感想:アマヤドリ

ヘドウィグの死は必然である

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★★★★★★★★☆☆ 8点

あらすじ

やり手の豪商ヴェルレ。その息子であるグレーゲルスは17年ぶりに山にある工場から自宅に戻ります。
その昔、ヴェルレと過去に共同で事業をしていたエクダル老人は、そのとき行われた不正の罪を一手にかぶって投獄され、その一族は没落。また、老エクダルの息子ヤルマールの妻ギーナは、かつてのヴェルレ家の家政婦で、ヴェルレの愛人だった過去が…。
ヴェルレは過去の負い目から、老エクダルに雑務を与え、ヤルマールとギーナの結婚を仕組み、仕事の面倒も見ています。
すべての状況を理解したグレーゲルスは、その正義感を昂ぶらせ、虚偽の上に成り立つエクダル家の目を覚まそうとします…。

「近代演劇の父」と言われるヘンリック・イプセンの“絶望古典”を、アマヤドリが演じます。

<ネタバレ>スッキリするほどの絶望

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グレーゲルスが現れるまで、ヤルマールギーナ、そして一人娘で14歳のヘドウィグは、老エクダルと共にささやかながら幸せに暮らしていました。しかし、「真実」を知り、そこから回復することでしか本当の幸せを手に入れられないと考えるグレーゲルスは、ギーナがかつてヴェルレと関係を持っていたことを明らかにします。

当然、ヤルマールは激怒し、家を出ていこうとします。しかし、自宅にしか依り何処のないヤルマールは、何かと理由を付けて家出を延期しようとします。そんな旦那の性格を見抜いているギーナは、ヤルマールにある程度カッコを付けさせて、事態を修復しようとします。

そこにさらなる追い打ちが。大事な一人娘のヘドウィグは、実はヴェルレギーナの間に生まれた子である、ということがヤルマールに示唆されます。
※今回の舞台ではあくまでも示唆されるだけで確定はしていません。

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エクダル家には納屋があり、そこでは“野鴨”が大切に育てられています。元々はヴェルレが狩りの時に銃撃した鴨で、撃たれたあと海底に沈んでいたところを猟犬に引き上げられ、最終的にエクダル家で飼育されています。そんな“野鴨”をヘドウィグは可愛がっています。

愛する父親から疑惑の目を向けられ悩むヘドウィグに、グレーゲルスは自己犠牲の精神を教えます。曰く「自分の一番大切なモノである“野鴨”を殺せば、ヘドウィグの大きな愛に父親も気付いてくれる」と。

実際にヤルマールも様々な事実が明るみに出た後で、「“野鴨”を絞め殺してやりたい」と発言しており、ヘドウィグはその提案を受け入れます。ヘドウィグは納屋に入り、“野鴨”ともつれながら、一発の銃弾を放ちます。しかし、その銃口ヘドウィグの胸に向いていました。

息絶えるヘドウィグを見て、絶望するエクダル家の人々。さらにグレーゲルスは自分のもたらした結果に狼狽えます。エクダル家の下に住む医師レリングは、冷静にヘドウィグが自殺したことを確認します。人生には“ウソ”という処方箋が必要だと考えるレリングは、理想と真実の暴力を振りかざすグレーゲルスこそ悪魔であると断罪し、舞台の幕が下ります。

ヘドウィグはなぜ自死したのか?

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野鴨を殺しに行ったヘドウィグはなぜ自死する必要があったのか?

賢い子供であるヘドウィグは、自分が両親の「本当の子供」ではない(あるいは「本当の子供」だと思われていない)ことに気付いています。そんな中で提案された「“野鴨”殺し」。納屋で“野鴨”を見ているうちに、“野鴨”と自分の境遇を重ねてしまったのではないでしょうか。

●“野鴨”→ヴィルレが撃ち落とすことで飼育鳥としての生を受け、エクダル家に飼育されている。

ヘドウィグ文字通りヴィルレから生を受け、エクダル家で養われている。

こう考えることで、“野鴨”=自分であり、「“野鴨”殺し」=自死につながります。“野鴨”を殺さないと父親の愛を取り戻せないのであれば、自分が死ぬしかないと…。
※上にも書きましたがヤルマールの「“野鴨”を絞め殺してやりたい」という発言がさらにヘドウィグを苦しめることになっています。

皮肉なことに「“野鴨”殺し」=自死で、ヤルマールの愛を取り戻すことができています…。

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しかし、イプセンの絶望はまだ続きます。
医師レリングはこの事件すら時間が立てばヤルマール自己憐憫のネタにしかならないと看破。未来への希望を一ミリも残しません。

 

鴨といえば、キルケゴールの話が思い出されます。

毎年晩秋の頃になると、鴨の群れは食べ物を求めて南へと旅立っていった。ある日、その土地に住む老人がその鴨の群れに餌を与え始めた。すると、その年から、冬になっても、その鴨の群れは南へと飛び立たなくなってしまった。飛ばなくとも食べ物にありつけるので、その太った鴨たちは飛ぶことすらしなくなった。そして、その老人が亡くなり、その飼いならされた鴨たちは、食べ物を求めて自分の翼で飛ぶ必要にやっと駆られたが、もはや飛ぶことはできず、全ての鴨が死んでしまったという。

エクダル家をヴィルレに飼われた“野鴨”だと見立てると、飼いならされた鴨のまま緩やかな死に向かうのか、無理矢理にでも真実に向けて飛び立つのか…。どちらをとっても完全な幸せが訪れない、そんな絶望が下敷きにあるのかもしれません。

 

身体表現を得意としていたアマヤドリが『崩れる』以降で手にした会話劇という武器。その武器により磨きがかかり、うまく身体表現を組み込もうという試行錯誤が見られました。より鋭利に尖っていくアマヤドリにこれからも注目です。

 

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イプセンの原作戯曲はこちら
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「サマータイムマシン・ワンスモア」感想:ヨーロッパ企画

史上最高の「2」かもしれない

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あらすじ

タイムマシンが現れた「あの夏の日」から、15年後。
SF研究会の元メンバーたちと、隣のカメラクラブの部員たちは、再びこの部室にやってきた……。

三十路を過ぎたSF研のメンバーが2018年にカムバック。同窓会のついでに寄った部室には現役の聡太(SF研)と箕輪(カメラクラブ)の現役生の姿が。そんななか、タイムマシンと共に田村くんが登場します。2028年に戻る予定が10年ズレて2018年に戻ってきてしまいます。10年ぶりのタイムマシンに興奮するメンバー。タイムパラドックスを恐れる小暮をよそに、過去を変えない程度にタイムマシンを楽しむことが決まります。当然、そんなうまくいくワケもなく…。

<ネタバレ>より複雑に、より深く

今回はタイムマシンが3つ登場することでより複雑なタイムトラベルになっています。「2週間前にレポートを提出しにいく現役組」
「2004年に感光したフィルムを取り返しに行くカメラクラブ組」
「2004年の学祭にレディー・ガガを見に行くSF研のズッコケ3人組」
の3組が同時にタイムトラベルし、その行方が複雑に絡み合ってきます。

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さらに、今回は現代(2018年)でもストーリーが展開。同級生の蛭谷が、大学を潰してショッピングモールを建設する計画を進めていることが分かります。2018年に残った甲本小暮は、過去で暴走するメンバーを止めつつ、蛭谷の計画の阻止を同時並行で行うという無理難題に立ち向かいます。

物語の流れが4つも同時並行しているため、混乱しそうなものですが、そこはヨーロッパ企画。さすがの構成で、なんのストレスもなく観劇することができます。会場でも常に笑い声が絶えませんでした。

さらに、ここに「サマータイムマシン・ブルース」をオマージュしたネタがこれでもか、と展開されていきます。
※「ヴィダルサスーン窃盗事件」「カッパ伝説」などなど

最終的に、小暮蛭谷は大学を救うために2015年に戻り、そのまま3年間過ごした後、2018年に合流する計画を立て、どうにかショッピングモールの建設を阻止します。しかも、田村くんのお父さん(つまり柴田の旦那)が過去に戻った現役生・聡太だったことが判明し、すべてが丸く収まります。

完璧に伏線を回収し、幕が下りるかと思いきや、現役生・箕輪がコーラをリモコンにこぼしてしまいます。案の定、リモコンはこわれて動かなくなる。このままでは2028年の田村くんたちにリモコンが繋がらない…。

そこで甲本が一言。「小暮、お前タイムマシン作れる…?」

さらなる続編だってアリ得るかも、という匂いをさせながら舞台は終わります。

サマータイムマシンの凄さ

タイムトラベル×コメディとして完璧な構成を持つ「サマータイムマシンシリーズ」ですが、なにがそんなに凄いのか?その一因として、「自力で帰ってくる」という発明があると思います。つまり、過去から帰ってこれなくても、現代までの時間を過ごして、合流するという最終奥義。これが成立してしまうと、タイムトラベルが持つハラハラ感がなくなってしまうという反則技です。

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しかし、これをうまく物語に取り入れ、サイコーのスパイスに仕上げています。「サマータイムマシン・ブルース」では甲本が“1日”自力で帰ってきましたが、これが「ワンスモア」では、“半年”にも“3年”にもなり、よりダイナミックなシカケになっています。
この大技も、登場人物たちがオトナになっているから可能に。大学生にとって“3年”を追加で過ごすのは非現実的ですが、オトナの彼らにとっては耐えられるものになっています。この辺りのさじ加減も絶妙です。

 

舞台自体が「タイムマシン」として機能してしまっている側面もあるかと思います。再演を見ていると、否が応でも初演を見た頃の自分を想像してしまいます。舞台が「ブルース」から「ワンスモア」に進化したように、自分も成長できているでしょうか?

いつかまた、再演&続編をやってくれることを期待せずにはいられません。またタイムトラベルして、いまのことを思い出したいものです。その感覚を味わうためにも、絶対にお見逃しなく!

 

サマータイムマシン・ブルース」の感想はこちら

theaterist.hatenablog.com

 

サマータイムマシン・ブルース」の脚本はこちら
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瑛太主演の映画はプライムビデオで見られます。
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「サマータイムマシン・ブルース」感想:ヨーロッパ企画

傑作におじさんの悲しみを加えて。

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★★★★★★★★★☆ 9点

あらすじ

夏、とある大学の、SF研究会の部室。
SF研究を一切しない部員たちと、その奥の暗室に居をかまえる、カメラクラブのメンバーたち。
そんな日常に、ふと見ると、部屋の片隅に見慣れぬ物体。
「これってタイムマシンじゃん!」どうやらそれは本物。興奮する一同。
先発隊に選ばれた3人は早速タイムマシンに乗り込み、昨日へと向かうが…。

映画化もされたヨーロッパ企画の傑作です。13年ぶり再演ということもあり、当時若かったメンバーも完全に“おじさん化”…。代表の上田誠は「演劇の嘘」なんて言っていましたが、むしろ哀愁があり、より“ブルース”になっていた気がします。

<ネタバレ>タイムマシンがもたらしたモノ

物語はタイムパラドックスを絡めた、大学生のドタバタ劇。

突然タイムマシンを手に入れたSF研のメンバーは、壊れてしまった「エアコンのリモコン」を手に入れようと、昨日へと向かいます。首尾よくリモコンを手に入れるも、過去を変えてしまうことで、現在の自分たちが消えてしまうというパラドックスに気づき、リモコンを戻そうとします。そこに「ヴィダルサスーン窃盗事件」「カッパ伝説」などの伏線が絡んで…というのが大筋です。

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 もう一つの軸が、甲本と柴田の恋。甲本は柴田に片想い中。しかし、その淡い恋はタイムマシンのせいで脆くも打ち砕かれてしまうのです。

タイムマシンをSF研に持ち込んだのは、25年後のSF研部員である田村くん。この田村くんがドタバタ劇の元凶なのですが、ひょんなことから田村くんが柴田の子どもであることが判明します。つまり、柴田は「田村」という名字の男性と結ばれたことが示唆されます。

うなだれる甲本ですが、タイムパラドックスを乗り越えて、未来を変える決心をするシーンで幕が下ります。

「名字って変えられるんかな?」と。

再演の意味

元旦のカウントダウンイベントで再演の発表があってから、なにかと話題になっていたこの舞台。登場人物と、演者たちの実年齢とどんどん乖離していくため、再演はないと言われていました。しかし、おじさん達が演じる大学生も、なんとも味わい深い…。

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特に甲本の最後のコトバには、これまでにない哀愁が漂っていて、グッときます。

この15年後を描く「サマータイムマシン・ワンスモア」を見てから思い出すと、また違った味合いになるのでしょうか。今から楽しみです。

 

サマータイムマシン・ブルース」の脚本はこちら
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「ロリコンのすべて」感想:ナイスストーカー

ロリコンとは切ない生き物である。

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★★★★★★★★☆☆ 8点

あらすじ

担任教師の坂倉に想いを寄せる11歳の少女・白勢。坂倉はその想いを拒絶し続ける一方で、彼女の裸の写真を隠し持っていた。誰にも明かさずにいた、ロリコン教師の罪の告白。遠い未来、砂の中から発掘された彼の手記を読んで、考古学者達は何を思うのか…。

ロリコン教師の手記が、遠い未来に発掘され学術的に研究されるハメに。ただし、手記の内容に曖昧な部分が多く、数々の解釈がなされます。一番の論点になっているのは手記に収められている「裸の少女の写真」は一体だれなのか?その検証を行うために、手記を演劇として再現しようという試みが始まる…。

という、劇中劇の複雑な構造をしています。
ロリコン」という概念を生み出したウラジーミル・ナボコフの『ロリータ』も、主人公が獄中で記した手記という体裁を取っているため、本作もそれに倣っています。

構造は複雑ですが、あくまでも焦点はロリコン教師・板倉と、少女・白勢の恋物語。(これは『ロリータ』も同じですね)

<ネタバレ>救えねぇな、このロリコン野郎!

劇中劇のため、場面や登場人物が入り乱れるのですが、板倉と白勢に絞って見れば、単純な(?)恋物語です。

一貫校の高校教師だった板倉は、たまたま教科担当として小学生も担当することに。そこで当時小5の白勢に出会い、恋に落ちます。白勢も板倉を愛しています。
そんななか、ひょんなことから板倉は着替え中の白勢を覗いてしまいます。そして、あろう事か、その一糸まとわぬ姿を写真に収めてしまいます。これが、問題になっている「裸の写真」。

そんなこんなありながら、一貫校ということもあり、中学〜高校と白勢と板倉の微妙な関係は続いていきます。

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そして白勢 高3の冬。明日18歳を迎え、ついに二人が付き合うことが「合法」になるタイミングです。白勢は改めて板倉に気持ちを確かめますが、板倉は相手にしません。あくまでも教師と生徒であると建前を述べますが、ロリコンの板倉には18歳は対象外…。白勢はそれに気づき、板倉の前から姿を消します。

しかし、板倉はようやく自分の気持ちに気づきます。ロリコン・板倉としては、いまの白勢は愛せないが、人間・板倉としては白勢を愛している。そんな単純なことに気づけなかった板倉は、白勢を傷つけた自分を呪いながら、白勢を探し出します。

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自分の気持ちを率直に伝える板倉。「いまの白勢は、自分の愛した白勢の残りカスでしかない。でも、愛している」と。しかし、そんなことを受け入れるには、白勢は若すぎました。これから明るい未来がある18歳の少女なのです。

「救えねぇな、このロリコン野郎!」と叫びながら、板倉の胸に飛び込む白勢。これを最初で最後の抱擁として、二人は別々の道を歩むになります。

まさか「ロリコン野郎」というセリフに、ここまで目頭が熱くなるとは…。

その後、板倉は教師を辞め、ビッチ系の女子と付き合います。相変わらずのロリコンっぷりを発揮しながらも、人間・板倉として女性を愛することを改めて誓うのでした。

切なすぎるロリコンという構造

ロリコンという悪のレッテルを貼り、見ないようにすることはとても簡単。しかし、ちゃんと向き合うことで、その裏にある物語をあぶり出すことができる。

一人の少女を愛し、その少女と結ばれるため時間を積み重ねていっても、自分の愛した「少女」ではなくなってしまう…。ロリコンは構造上、絶対に幸せになれない人種なのです。これは、フィクションでしか描けない真理だと思います。

板倉は最後のシーンで白勢に「裸の写真」を返そうとします。しかし、その写真はブレブレで肌色の塊でしかなかったのです。そんなモノを大切に持ち続けていた板倉。少々歪んではいますが、白勢を愛する気持ちはホンモノでした。

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現在、ロリコンはNGとされています。

ロリコンはNG。
ロリコンを描くこともNG。
ロリコンを描こうとすることを、描くのは…?

ロリコンを題材にすると、こんな禅問答的な問いに立たされることになります。この舞台の複雑な構造も、こんな問いから出発しているのではないでしょうか?

 

ロリコンというと、すぐに「VS.表現の自由」なんて話になりがちですが、ロリコンに真摯に向き合うことで一つの真理を見せてくれた怪作です。また再演してくれることを願って…。

 

この舞台の台本はKindleでも読むことができます。
↓↓↓

『「 」』感想:エンニュイ

言葉が脱色される瞬間

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あらすじ

突然流行りだした言葉を失う奇病。
最終的には存在が消えてしまうという…。

こんなイントロダクションから始まる舞台ですが、この病にフォーカスするかと言えば、そんなことはありません。むしろ、こんな病気が流行っている中でも、当たり前に繰り返されている日常に焦点を当て、その本質をあぶり出そうとしています。

舞台となるのは、「IT系の小さな職場」「オカルトサークル」「動画配信者」など、“言葉”の存在が比較的大事な空間。登場人物たちは、そこでコミュニケーションを取ろうとするのですが、ズレるズレる…。

<ネタバレ>言葉が行き場を失った先に

場面はコロコロ切り替わり、ストーリーは安定しないのですが、常に共通しているのが「伝わらなさ」。

職場では、上司-部下の思いはズレ。
オカルトサークルでは、常連-新入りが噛み合わず。
ネット上では、配信主-視聴者のやりたいコトは乖離していく。

登場する人々は、言葉を失っているワケではないのに「伝わらない」。これは、舞台上に限らず、見ている自分たちにも矛先が向いています。

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登場人物たちには、「子どもが生まれる」「母親が死ぬ」など人生の一大事が降りかかるのですが、そこで発せられる言葉も宙を舞う。

グッとくる言葉も、うわさ話も、与太話も、嘘も、すべてがフラットになり、上滑る。
言葉も、歌も、ラップも、能も、伝わらない。

それでも「関係欲求」を持つ登場人物たちは、叫び続けるしかない。

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ラストの場面では、それぞれが語っていた言葉を、別の人間が語りだします。ここで言葉は完全に脱色されてしまいます。「言葉を失う奇病」とは、こういうことなのでしょう。

彼らはペンライトを持って、語りかけます。ペンライトは、言葉の向かう先を照らしているはずです。しかし、その光は、虚空を、壁を、自分の口元を照らすだけで、他人に向かわない。ここでも「伝わらない」絶望が表現されています。

キレイな光の点滅と、そこに横たわる恐怖を感じながら、舞台は幕を閉じます。

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書きぶりが怖くなってしまいましたが、お笑いコンビのメンバーとしても活動されている長谷川優貴さんが脚本をされているため、随所に笑わされる場面も散りばめられています。

どこか幻想的なのに、笑える。怖い話なのに、クスクスする。なんとも不思議な舞台でした。