郵便配達は二度チケットをもぎる

演劇未経験者が、駄文をこねます。

「散歩する侵略者」感想:イキウメ

イキウメ的「愛は地球を救う」

f:id:mAnaka:20171106145042j:plain★★★★★★★★★★ 10点

あらすじ

海に近い町に住む、真治と鳴海の夫婦。真治は数日間の行方不明の後、まるで別の人格になって帰ってきた。素直で穏やか、でもどこかちぐはぐで話が通じない。不仲だった夫の変化に戸惑う鳴海を置いて、真治は毎日散歩に出かける。町では一家慘殺事件が発生し、奇妙な現象が頻発。取材に訪れたジャーナリストの桜井は、“侵略者”の影を見る_。

今年、長澤まさみ松田龍平で映画化もされた、イキウメの代表作。
イキウメの真髄である“人間臭いSF”の傑作です。 

<ネタバレ>愛は地球を救うのか?

この舞台は、「地球侵略を狙う宇宙人3体が、地球人の人格を乗っ取り偵察していた」と文章にするとチープこの上ない話が繰り広げられます。主人公・真治も宇宙人に乗っ取られた一人。
ただ、この舞台を名作足らしめている要素として、宇宙人は「地球人から“概念”を奪う」能力を持っているという設定があります。
宇宙人たちは、地球人に「所有」「自由」「自他」等々に関する質問をし、相手がイメージした“概念”を根こそぎ奪う存在として描かれます。タイトルにある「散歩する侵略者」とは、散歩しながら地球人たちを見つけ、“概念”を奪っていく侵略者(宇宙人)ということで、本当にそのままの意味です。

宇宙人から“概念”を奪われた人間は、その“概念”を理解できなくなります。「自由」を奪われた者は「自由」の意味が理解できなくなる、というワケです。

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 また、舞台となる町(おそらく日本海に面した東北のどこか)は、隣国からのミサイル攻撃の脅威にさらされており、戦争突入間近であることが語られます。『「侵略」されつつある隣国との緊張状態』と、『「侵略準備中」である宇宙人との関わり方』というように、この舞台には多くの「対比」が隠されています。

「家族」の“概念”を奪われ攻撃的になり、所有権に敏感になる女性。
「自他」の“概念”を奪われ、他人に同調し続ける憎めない人物になる男性。

早いうちに「家族」の“概念”を手に入れ、穏やかな宇宙人・真治。
「時間」や「自由」などの“概念”しか持っておらず、攻撃的な宇宙人・天野。

このような「対比」によって、問題の本質を抉り出していきます。

練り込まれたエピソードにより、「自由」とは?「自分」とは?と投げかけられるのですが、最後に「愛」について重たい一撃を浴びせてきます。

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 夫・真治が宇宙人であり、そろそろ帰還(=真治の死)しようとしていることを知った鳴海は、真治に自分から「愛」の“概念"を奪うように言います。
真治を失うくらいなら、「愛」なんて分からない方が良いと…。

最初は嫌がる真治ですが、最終的に鳴海から「愛」を奪います。
初めて「愛」を知り、その大切さに気づくと同時に、それを最愛の人から奪ってしまったことに、真治は愕然とし、その場で慟哭します。
一方、鳴海は「私、意外と平気だよ」と明るく振る舞うのでした。

ラストシーン。「愛」を理解した真治が「宇宙人=侵略者」としての目的に対して、疑問を抱いた場面で終演となります。

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「愛」に目覚めた真治のその後の行動は描かれていませんが、残りの2体の宇宙人を止めに行くことは 明らかです。
さらに劇中で、「所有」の“概念”を奪われ反戦運動に目覚めた男性から「人種や国境の“概念”をインターネットなどのメディアを使って、世界中から奪ってしまえば、地球が一つにまとまり、宇宙人にも対抗できる」と提案されるのですが、これを実際に行動に移すのではないでしょうか?
これってまさに「愛は地球を救う」物語ですよね。

24時間テレビで感動ドラマやマラソンを見せられても何一つ響いてこない。
しかし、「SF✕演劇」という圧倒的な虚構だからこそ、このメッセージの本質を抉り出し、届けることができるのだと思います。

また「愛」の“概念”を奪われた状態にも関わらず、泣きじゃくる真治を抱きしめる鳴海の姿にも一つの真理を感じます。
「愛」が分からないはずの鳴海の行動に、観客は本当の「愛」のカタチを見ます。
つまり「愛」という“概念”を失っても“行動”は起こせる。「愛」とは“概念”ではなく“行動”なのだと。
こんな気恥ずかしいことも、虚構のなかで描けば強いメッセージになり得ます。 

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また、宇宙人たちが乗っ取った人格の記憶データにアクセスして人間界に溶け込もうとするのですが、この描き方も現代の問題を射程に捉えています。
最初は記憶データへのアクセスに慣れておらず、違和感しかない宇宙人のコミュニケーションも、慣れて人格を理解していくうちに、どんどん人間臭くなっていきます。
これは「データベースの再生装置」でしかなかった存在が、「データベースにアクセスするAI」に近づいている、と読み替えることができます。

本人の記憶を持ち、本人の人格を学習したAIは、本人なのか?というスワンプマン的問題にアプローチしているように感じられました。
「愛」というエッセンスまで加わった宇宙人・真治と、元々の真治の間に、違いはあるのでしょうか?

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最後に役者の話をすると、イキウメのメンバーは皆さん素晴らしいのですが、安井順平さんがバツグンでした。
安井順平さんは、毎回役どころとして「あっちの世界と、こっちの世界」の橋渡し役を担っているのですが、今回も彼の存在が物語の潤滑油として効いていました。
「一般人として“怪奇”を疑うが、時間を追うごとに“怪奇”を信じ、世界との関わり方を変える」という、観客の分身として動いてくれる彼のお陰で、込み入った物語も引っかかることなく飲み込めます。本当に稀有な存在だと思います。

 

映画でイキウメが気になった方は、ぜひこのスケールの世界感を数人で作り上げてしまうナマの舞台にも足を運んで頂ければと思います。
シアタートラムで観るイキウメにハズレ無し!

原作はこちら↓

「極楽地獄」感想:柿喰う客@柿フェス

またひとつ、タブーが生まれる

f:id:mAnaka:20171031160644j:plain★★★★★★★☆☆☆ 7点

あらすじ

赤坂にあるホテルの新人研修最終日。
研修の最後にワークショップが始まる。講師ナガシマを中心に行われるそのワークショップとは、あるリゾートホテルで起こった「芋煮事件」というおぞましい惨劇を再現するモノであった。
東日本大震災と同時に仙台で起こったその事件は、どのような結末を迎えるのか?

今回の柿フェスで唯一の新作であり、初演が仙台で行われた問題作です。

<ネタバレ>描きたかった本当のタブーとは?

メインビジュアルから、すでにネタバレしているのですが、いわゆる「カニバリズム」ものです。
「芋煮事件」の舞台となった、仙台の山奥にある会員制のホテル「パラディーゾ」は、供養のため故人の遺体を調理し、親族に振る舞うサービスを行っていました。

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「屠り(ほふり)」と名付けられたこの儀式を執り行うホテルマン達は「屠り人(ほふりびと)」となり、風習の継承者となっていきます。

この仕事に誇りをもつ彼らは、食人に惹かれる「肉屋の息子」という少年の登場により、暴走。「芋煮事件」と呼ばれる所以となった「被災し亡くなった母親を芋煮の炊き出しにして振る舞う」という事件を起こし、すべてが発覚。ホテルは解散することになります。

しかし、話はそれで終わらず、赤坂のホテルに戻ってきます。ひょんなことから、「パラディーゾ」の会員名簿を手に入れたホテルの経営陣は、自分たちのホテルで「屠り」を行うことを決定します。

この研修の目的が、新人たちを「屠り人」にする第一歩だったということが判明し、幕を閉じます。

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何はともあれ、「永島敬三がスゴい」の一言に尽きる。
もう彼を見せるために、この「極楽地獄」はあるのではないかと感じさせるほどの存在感。ザ・柿喰う客。ザ・圧倒的フィクション。
柿フェスに看板俳優である玉置玲央が出なかったのは、永島敬三を一つ上のステージに上げるためだったのでは?と勘ぐってしまうほど。
それくらい、柿フェス全体を通して、キレキレでした。

 

話を舞台に戻すと、「カニバリズム」を供養と位置づけ、弔う側からの目線でストーリーを組み立てるのは面白かったです。「屠り人」は完全に「おくりびと」を意識していますし。

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またTwitter等で感想を見ていると、散りばめられた数々のタブーよりも、「東日本大震災」を絡めたことに違和感・不快感を感じている人が多いように見受けられました。
脚本・中屋敷法仁の意図は測りかねますが、あえて「特別視」しないというか、タブーのなかに溶け込ませて描くことに、本質があったように思います。

本当に「震災」について描きたいのであれば、震災によって「パラディーゾ」を崩壊させるとか、「屠り」どころではなくなる「屠り人」の姿を描くはずです。
むしろ、あの「震災」にも揺るがない風習やタブーの強さを描きたかったのではないでしょうか?
不謹慎な言い方になるかもしれませんが、「震災=場転の装置」くらいにしか捉えないことに意味があったように思います。
それを“不快だ”と感じる人がいるのも、また事実なのでしょうが。

東日本大震災」に触れるには、深い配慮と慎重な姿勢が必要である。軽々しく触れてはいけない。そういうタブーが、日本に新たに生まれている。そんなことを軽やかに描き出しているのではないでしょうか?

 

この公演が、仙台から赤坂に場所を移したように、「カニバリズム」も仙台から赤坂に移動してきました。
強力な感染力をもつタブーは、ワークショップから新人ホテルマンたちに感染したように、舞台を観る観客たちにも染み出しているのでしょうか?

柿フェスまだまだやってるよ

これにて柿フェス全4作品の観劇が終わりました。
メンバーが増えたことによる重厚な構成はもちろん、照明や音響も素晴らしかった。
やはり柿喰う客は、これくらいのサイズ感の劇場がよく似合う。

柿フェスは11/5までやっているので、興味がある方はぜひ劇場へ。
他の作品の感想はこちら。

theaterist.hatenablog.com

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「無差別」感想:柿喰う客@柿フェス

差別なき“無差別”の世界で待っていたものは?

f:id:mAnaka:20171017121303j:plain★★★★★★★★★☆ 9点

あらすじ

「神も、仏も、獣も、人も…」
戦後日本の思想転換を題材に描き出す、おぞましい因果の物語。
第57回岸田國士戯曲賞最終候補作品、7名の女優による魂のリバイバル

2012年に男女混合の劇団員だけで上映された作品を、新メンバーを加えた女優のみで再演した舞台。柿喰う客の代表作であり、個人的にも大好きな作品です。

オリジナル版はYoutubeにアップされています。

www.youtube.com

戦前から戦後を股にかけた物語。赤犬の屠殺を生業とし、“狗”と呼ばれ忌み嫌われる一族に生まれた「狗吉」と、その妹「狗子」。「狗吉」は、「狗子」を赤犬殺しの“穢れ”から守るため、仏を彫らせ、写経をさせ、汚れ仕事はすべて自分で請け負いながら育てていきます。

そんな中、太平洋戦争が勃発。“ヒト”になることを諦めきれない「狗吉」は、大日本帝国の兵士として出兵することを望みます。「狗吉」を人外扱いする村人たちは、村のご神木である楠木の枝を持ち帰ってくれば出兵させてやると持ちかけるのですが…。

さらにあらすじ

話は一転し、山の中へ。樹齢1000年の楠木は、天神様から山の神に任命されます。モグラの一族はこれを祝って、生まれたばかりの“メクラ”で“カタワ”の娘を生贄に捧げます。生贄になることを拒絶した「モグラの娘」は結果的に山の神になった「大楠古多万(オオグスノコダマ)」を殺してしまいますが、代わりに「不見姫神(ヒミズヒメ)」として山に君臨します。

「狗吉」は「不見姫神」に殺された「大楠古多万」の枝を持ち帰り、無事出兵していきます。

村に残された「狗子」は、その“穢れ”の無さから、「不見姫神」の巫女となり、「不見姫神」から新しい“奉納舞”を作るよう命じられます。赤犬の子犬であり「狗子」が育てた“人之子”が、盲目の舞踊者「真徳丸」を村に連れて帰り、「不見姫神」の“奉納舞"が完成します。

このシーンがサブイボ。
オリジナルの「無差別」でも流れたBGMの中、唯一初演時と今回の両方に出演する葉丸あすかさん演じる「真徳丸」が村人を引っ張りながら“奉納舞”を舞う。これは、新メンバーたちを舞台上で引っ張る、古くからのメンバーである葉丸あすかさん本人の姿とリンクして、本当に美しいです。

f:id:mAnaka:20171017190146j:plain※本当はこの“奉納舞”ではないのですが、、、

一方、死んだはずの「大楠古多万」は怨念が溜まり、きのこの化物「怨茸(ウラミダケ)」という祟り神になってしまいます。ここが唯一コミカルなシーンなので、気を抜きがちなのですが、その後の展開で見事に裏切られることとなります。

「狗吉」は戦場では死ねず、村に生還します。
しかし、そこに待っていたのは原爆の黒い雨で被爆してしまった「狗子」の姿でした。
「狗吉」が戦場を逃げ回っている時、「怨茸」はきのこの化物として、最悪の“きのこ雲”を呼び起こしていたのです。

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“穢れ”を知らずに育ったはずなのに、黒い雨の“穢れ”を受けた「狗子」。兵士として死ねず、“穢れ”た一族の“狗”に戻ってしまった「狗吉」。村人は“穢れ”た二人を、大穴に落として殺そうとします。息も絶え絶えの二人は、穴の中で新しい生命を宿そうとします。そこから生まれてくるのは、あたらしい世界か、それとも祟り神か…。

<ネタバレ>差別を失うとは?

題名である「無差別」とは、すべてを平等に壊す“核”のことでした。
それまで“神”であったはずの天皇を、人間に引きずり下ろしたのも“核”。 
皮肉にも「狗吉」が望んだ、差別なき世界を実現したのは“原子力の神様”。

東日本大震災を経て、日本人にとっての“核”は空から降ってくるものではなく、内在する暴力になっています。そう考えると、より日本的“八百万の神”に近くなっているのかもしれません。

本来ポジティブな意味でもおかしくない「無差別」というコトバの後ろには、恐ろしいワードが続きます。「爆撃」「テロ」「殺人」…。
“核”によって「無差別」がもたらされた世界は、この後、コトバ通り、恐ろしいコトが続いていくのでしょうか?

ラストシーンが、その答えになっている気がします。
「真徳丸」が、始まりのシーンのセリフをひっくり返した語りを行い、舞台は終わります。
始まりと終わりがひっくり返ったように、「狗吉」と「狗子」の因果もひっくり返り、幸せな新しい世界を産み落とすのではないでしょうか。

<始まりのセリフ>

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<終わりのセリフ>

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※「となりの柿喰う客」(http://kaki-kuu-kyaku.com/special.html)より抜粋

 

オリジナルとの対比で言うと女優のみで上演されたことで、より物語性が際立っていました。初演のときは、「狗吉」を演じる玉置玲央さん始め、俳優全員が異常な身体能力で暴れまわる、圧力のある舞台でした。
このあたりは女体シェイクスピアなど、女優の可能性を引き出すことに長けた中屋敷法仁さんらしいなと。

そういう意味では、女性でありながら「狗吉」を演じきった長尾友里花さんはとんでもない役者ですね。

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また、オリジナルでは舞台中央にジャングルジムにも似た舞台装置がありました。これが、神に捧げる祭壇のような役割を果たしており、より奉納劇としてのイメージを強くしていました。

f:id:mAnaka:20171017191711j:plain※画像はオリジナル公演のもの

 このジャングルジムの役割を、長身スレンダーの原田理央さん が自分のカラダを見立てて演じたときには笑いそうになりましたが、見慣れていくうちに美しさの方が勝ってくるので不思議です。

 

 

長くなりましたが、この舞台、濃さに反して80分と比較的ショート。
これだけの内容をスピード感持ってエンタメ化してしまう技量はさすがの一言。
またいつか、再演してくれることを願って…。

 

「流血サーカス」感想:柿喰う客@柿フェス

舞台と客席の欺瞞

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★★★★★☆☆☆☆☆ 5点

あらすじ

サーカス団に売り飛ばされた少年の波瀾万丈な冒険譚。
エンターテイメントを愛する全ての人に送る怪奇娯楽作品。
東日本大震災から一週間で創作&上演された問題作を新旧メンバーで再演。

餓死寸前の兄妹が人さらいに攫われて、兄はサーカス団に、妹はお金持ちの家に売られるというメルヘン童話さながらのストーリーです。
兄はサーカス団で人気者になり、いつか妹を迎えに行くと誓うのですが…。

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<ネタバレ>客席は安全ではない

兄が売られたサーカス団は、実は「演者の失敗や事故をウリにした流血サーカス団」であったから、さ~大変。
しかも、兄を探しに「流血サーカス」に来た妹は、あまりにもショッキングな光景に、精神に異常を来し、スプラッター趣味の“猟奇的な彼女"になってしまうという超展開。
兄は「本当のエンタメ」を見せることで、妹の目を覚まそうと奮闘します。

しかし、兄の努力むなしく「妹の狂気」は止まらず、ついに自ら兄を殺害。
「流血サーカス」も、金貨1枚で客席からナイフを投げられる権利付きの、より邪悪な見世物になってしまい幕を閉じます。

ストーリーとしては、こんな感じで怒涛の展開を繰り広げていくのですが、この舞台のポイントは「ふしだらな女」という登場人物。
本編には全く関係なく、いちいち舞台から客席に絡んでくる役どころ。
妖精パック的な役割を持ったトリックスターです。

f:id:mAnaka:20171016173021j:plain※演じる加藤ひろたかさんが素晴らしい。

最後の最後、「ふしだらな女」が客席に向かって語りかけるのですが、この内容がかなり鋭利です。

いわゆる“第四の壁"的なことなのですが、
果たしてナイフを投げる客席は本当に安全なのか?
本当に演者が客席に向かってナイフを投げることはないのか?
自分が客席だと思っているものは逆で、本当は舞台なのではないか?
ということを不気味に説いてきます。

狭い客席でぎゅうぎゅうになって、身動きが取れない中でこのセリフを聞いていると、本当にナイフを眉間に突き立てられているような気持ちに…。

東日本大震災の直後に創作された演劇ではありますが、その後の日本を予言するような内容ですね。
炎上に次ぐ、炎上。燃やしていると思っていた方が、次の瞬間には燃えている。
ちょっとしたことで自分が全世界の矢面に立たされてしまう可能性を持っている。
まさしく、舞台に向かって投げたナイフがブーメランのように戻ってくる日常です。

たかだか数十センチの高さしか違わない「舞台」と「客席」の欺瞞を鮮やかに描いています。

 

60分という短い上演時間で、エネルギッシュに展開される怒涛の舞台ですので、興味のある方はぜひ。新メンバーも躍動しています。

「関数ドミノ」感想:イキウメ プロデュース

かすかな希望の描き方

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★★★★★★☆☆☆☆ 6点

あらすじ

とある都市で、奇妙な交通事故が起きる。
信号のない横断歩道を渡る歩行者・田宮尚偉(池岡亮介)のもとに、速度も落とさず車がカーブしてきた。
しかし車は田宮の数センチ手前で、あたかも透明な壁に衝突したかのように大破する。
田宮は無傷、運転手の新田直樹(鈴木裕樹)は軽傷で済むが、助手席に座っていた女性は重傷を負ってしまう。
目撃者は真壁薫(瀬戸康史)と友人の秋山景杜(小島藤子)、左門森魚(柄本時生)の3人。
事後処理を担当する保険調査員・横道赤彦(勝村政信)はこの不可解な事故に手を焼き、関係者を集めて検証を始める。
すると真壁が、ある仮説を立てるのだった。
その調査はやがて、HIV患者・土呂弘光(山田悠介)、作家を目指す学生・平岡泉(八幡みゆき)、真壁の主治医・大野琴葉(千葉雅子)をも巻き込んでいく。
はじめは荒唐無稽なものと思われた仮説だったが、それを裏付けるような不思議な出来事が彼らの周りで起こり始める――。

ざっくり感想

この舞台には「ドミノ」という概念が登場します。自分が望んだことが自然とかなってしまう特殊な人物のことで、舞台上では“期間限定の神様"という表現もされていました。

この「ドミノ」という存在が、本当にいるのか?実在するとして、真壁が唱えるように「森魚=ドミノ」なのか?ということを主軸に進行していきます。

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この脚本のうまい所は、精神科医・大野の存在で、「自分がうまくいかないことを、ドミノという存在を妄想することで現実逃避する症状」として「ドミノ幻想」という一種の精神病の存在を提示することです。

これによって、観客は「真壁=精神疾患」という可能性まで考える必要がでてきます。

ちなみに「ドミノ幻想」はフィクションですが、あまりのリアリティに終わった後、思わず検索してしまうほどです。

<ネタバレ>救いはどこにあったのか?

ここからは完全にネタバレですが、オチは「森魚=ドミノ」ではなく、「真壁=ドミノ」であったことが判明することにあります。
森魚が起こしていた奇跡は、「森魚=ドミノ」であることを望む真壁が間接的に起こしていたことが判明します。まさに森魚は、真壁の能力が生み出した“関数ドミノ"だったわけです。

話は少しそれますが、「関数ドミノ」には2009年版と2014年版が存在します。
今回の舞台は、2009年版をベースにしていることが脚本の前川知大によって語られていますが、何が違うかというと、

●2009年版
→今回と同じく、ドミノであることに気づいた真壁は自分の能力で傷つけてしまった秋山を必死に救おうとするシーンで終わる。

●2014年版
→登場人物たちの年齢がもっと高く、真壁は自分がドミノであったことに絶望します。
もう人生が取り返しのつかない所まで来てしまっていたからでしょう。
真壁は客席に向かって「俺を見るな!」と絶叫して、舞台は暗転。そのまま終了します。

2009年版を選んだのは、瀬戸康史を始め演者が若く、よりラストに希望が残る方を選択したと、前川自身が語っています。

ただし、今回の舞台で狙い通り「かすかな希望」を描けていたかという部分には疑問が残ります。

というのも、ドミノを追うメンバーに人間味が薄く、感情移入のポイントが少ない。これはバックグラウンドなどを描かずに、スピード感をもって舞台を進めたいという狙いでの演出だと思うのですが、ラストの真壁が秋山を救おうとするシーンにすら人間味が感じられず、どこかシュールな画になってしまっています。

それを見守る横道を始めとしたメンバーも、暗闇の中でボーッと突っ立っており、そこに真壁が一歩を踏み出そうとする希望を感じさせません。
むしろ、彼らははじめから「真壁=ドミノ」であることが分かっており、その実証実験をしていた特殊な組織の人間である、くらいの設定を感じさせるモノでした。
※もちろん、そんな設定は存在しません。

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もし希望を描くのであれば、真壁と秋山の関係にスポットライトを当てるべきだったかなと。

秋山のある種、狂信的なまでに真壁に寄り添う姿は、「真壁=ドミノ」であったことを考えると、真壁が秋山をそばに置きたいという願いから実現されていたものであることが分かります。
秋山への“想い"が本物である以上、おそらくラストで秋山は助かるでしょう。

裏を返せば、唯一の理解者であるはずの秋山ですら「ドミノ」無くしては、獲得できなかったという絶望的な可能性も秘めていますが…。

舞台のDVDはこちら↓

「八百長デスマッチ」感想:柿喰う客@柿フェス

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これぞ柿喰う客の圧倒的フィクション!

★★★★★★★★☆☆ 8点

あらすじ

「この戦いの結末は…入念に打ち合わせ済みだ!」
あらゆる反則技が許された男たちの、壮絶かつ予定調和な死闘。
俳優2人による意地とプライドを賭けた演劇勝負、ついに開幕。

永島敬三、大村わたるという柿喰う客に長く籍をおく俳優によるシンクロ舞台です。
何をするにも、相手と同じことをしてしまう小学1年生同士による「引き分け」という結果の見えた「八百長デスマッチ」の開幕です。

<ネタバレ>演劇というフィクションを丸裸に

30分のショート舞台ですが、柿喰う客が掲げる「圧倒的フィクション」をこれでもか!と詰め込んだ舞台になっています。

永島敬三が発したセリフを、大村わたるが一字一句違わず同じリズムで発する。「なるほど、そういう舞台か」と思った瞬間に、二人が同じセリフを同時に発し始まる。「うわー、よく練習しているな」と感心していると、まさかシンクロしたまま舞台が進行していく。
最初「すごいな」と思ったシンクロも、長く続けば続くほど「これどこまで続ける気だよ、最後までいくつもりじゃないよな?」という不安に変わっていく。
演じる俳優以上に、観客に良い意味で“ストレス"を与えてくる。

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これぞ脚本・演出を手がける中屋敷法仁の狙いだと思います。
2人がシンクロする物語なんて、小説はもちろん、ドラマやアニメでやっても何も面白くないはず。“ナマモノ”である演劇だからこそ、観客を共犯関係にすることで成立する物語です。
まさしく、観劇でしかできない体験を提供してくれます。

柿喰う客の少人数舞台には、玉置玲央が行う一人舞台「いまさらキスシーン」がありますが、本当に信頼している俳優たちだからこそ、このような舞台を演じさせることができるのでしょう。
※ちなみに過去、玉置玲央も「八百長デスマッチ」に出演しています。

柿喰う客には、続々と新しい俳優たちが入ってきてますが、古くからいるメンバーが軸となって活躍を続けてほしいと思います。

 

この作品は、「柿喰う客フェスティバル」という1ヵ月で4作品を上映するイベントの1作品です。30分と短く、「圧倒的フィクション」を体験できる「八百長デスマッチ」は柿フェスのスタートにもってこいの作品ではないでしょうか。

11/5まで開催されてますので、興味のある方はぜひ劇場に行って頂ければと思います。

 

「プレイヤー」感想:前川知大&長塚圭史

“劇中劇”と“現実”と“リアル”の入れ子構造

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★★★★★★★★★☆ 9点

あらすじ

舞台はある地方都市の公共劇場、そのリハーサル室。国民的なスターから地元の大学生まで、様々なキャリアを持つ俳優・スタッフたちが集まり、演劇のリハーサルが行われている。
演目は新作『PLAYER』。幽霊の物語だ。死者の言葉が、生きている人間を通して「再生」されるという、死が生を侵食してくる物語。

<行方不明の女性、天野真(あまのまこと)が遺体で見つかった。死後も意識として存在し続けることに成功した彼女は、友人達の記憶をアクセスポイントとして、友人達の口を借りて発言するようになっていく。事件を追っていた刑事、桜井を前に、天野真を死に導いた環境保護団体代表であり瞑想ワークショップの指導者、時枝は、これは世界を変える第一歩だと臆面もなく語る。死者との共存が、この物質文明を打開するだろうと。カルトとしか思えない時枝の主張に、桜井は次第に飲み込まれてゆく。>

物語は劇中劇と稽古場という二つの人間関係を行き来しながら進んでいく。
死者の言葉を「再生」することと、戯曲に書かれた言葉を「再生」することが重なる。単なる過去の再生ではなく、今を生き始める死者と、戯曲の言葉に引き寄せられ、アドリブで新たな言葉を紡ぎ出す俳優が重なる。
演じることで死者と繋がった俳優達は、戯曲の中の倒錯した死生観に、どこか感覚を狂わされていく。生と死、虚構と現実の境界が曖昧になっていく。時枝の狂った主張は、桜井の選んだ行動は、リハーサル室でどう響くのか。

劇中劇『PLAYER』は前川知大の「イキウメ」で2006年に上演されている。
当時から話題になったこのサイコホラー舞台をベースに、新しい戯曲を作り上げ、長塚圭史が演出するという趣旨の話題作である。

ざっくり感想

「あらすじ」からも分かる通り、劇中劇と現実の境目が曖昧になり、いま見ているのが“劇中劇”なのか“現実”なのかが分からなくなる、というのが味噌。
“劇中劇”だと思って安心して見ていると、突然ある登場人物が“劇中劇”を揺るがすような発言をし、さらに混乱させる…なんてことが頻発するため、一言も聞き漏らせない緊迫感があります。

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さらに“劇中劇”と“現実”と書いてますが、この“現実”すら実は演じられているモノなのではないか…という疑問が後半に生まれてくるシカケになっており、“劇中劇”と“現実”とさらに“リアル”が入れ子構造になって、怒涛の展開に突入していくことになります。
まるで「インセプション」ですね。

<ネタバレ>時枝は死んだのか?

“劇中劇”のラストで、新興宗教のカリスマである時枝は高橋努演じる警察官に撲殺されます。
ただし、“劇中劇”が終わっても時枝はピクリとも動きません。このシーン、時枝は“現実”でも死んでいるのか、というのが舞台最大の謎として残ります。

その鍵は、「血糊のバット」と「市長」が握っていると思います。

●「血糊のバット」
警察官が時枝を殴り殺したバットには、べったりと血が付いていました。そもそも“劇中劇”は稽古中だったわけで、ただの稽古に血糊まで使う必要はないはずです。これは本当の「血」だったということではないでしょうか。

●「市長」
この舞台には完全に外部の人間として「市長」が登場します。“劇中劇”には関与せず“現実”パートのみに登場する市長は、仲村トオルを「時枝悟」とフルネームで呼びます。
この舞台では、“劇中劇”の役名は苗字/“現実”の俳優は下の名前で呼び分けられているのですが、時枝のみ“劇中劇”でも“現実”でも「時枝悟」です。

つまり、彼は劇によって分けられた存在ではなく、すべての次元で共有された一つの人格ということになります。

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“劇中劇”で死んだ彼は、“現実”でも死んでいるというのが妥当だと考えます。

では誰の意思が、彼を殺したのか?
ここからは推測でしかありませんが、『PLAYER』の作家が殺したのではないでしょうか。
“劇中劇”である『PLAYER』は作家の不審死によって、未完成となっています。プロデューサーは稽古のなかで、俳優たちを「プレイヤー」として作家の声を再生し、『PLAYER』の脚本が完成することを狙っています。

時枝悟の死は、台本のまだ書かれていない「先の展開」にリンクすることを考えると、俳優を「プレイヤー」とした作家の声が時枝悟を殺害したと考えられます。

作家の不審死に、時枝悟が関わっているのかどうかは不明ですが、作家と旧知のなかである演出家やプロデューサーが「悟」を「時枝」に配役したのには意図を感じます。
※実際に「悟」は”現実”でも瞑想などを行っており、思想も謎めいています。

藤原竜也演じる「桜井」がプロデューサーに向かって、「この戯曲、ネットで公開してよね」と語り、幕を閉じることになりますが、このセリフからして、作家も物語の結末に満足していることでしょう。

完成された戯曲がネットに公開されることで、どんな「プレイヤー」たちに演じられ、その結果どのような自体が発生するのか。そんな不気味な余韻を残して終わっていきます。

 

イキウメらしい部分も多いのですが、やはり長塚圭史節が炸裂しています。
特にラスト30分の展開は圧巻。
普段は感じにくい「演出家」の役割を、嫌というほど見せつけられます。

できることなら、シアターコクーンのような大きな舞台ではなく、小劇場のような所で再演して欲しい。そんな作品でした。