郵便配達は二度チケットをもぎる

演劇未経験者が、駄文をこねます。

「図書館敵人生Vol.4 襲ってくるもの」感想:イキウメ

人は“自由”たりうるのか

f:id:mAnaka:20180521122207j:plain★★★★★★★☆☆☆ 7点

概要

一つのテーマで短編を上演する「図書館的人生」の第四弾。
今回は、「意識の中の魔物」。

人の無意識に潜む「思い出・衝動・感情」が、時に人に牙を剥く瞬間を捉えています。

上演されるのは3演目。
イキウメらしいSF物語のなかに、とても“人間臭い”ドラマが描かれています。

<ネタバレ>3編のあらまし

それぞれの短編をざっくり追っていくと…

①「箱詰め男」(2036年)

脳外科医の山田不二夫は、アルツハイマーを患ったことをキッカケに、自分の記憶や意識をコンピューターに移植する「マインドアップロード」を実行。箱型コンピューターに乗り移ることに成功します。
そこにロボット工学者である息子の宗夫が帰国するも、コンピューターの父親は、まるでAIスピーカーにようにしか見えません。その原因が五感を失ったことによる「欲望の喪失」だと考えた宗夫は、記憶と最も相性が良い「嗅覚」を復活させるために、“嗅覚センサー”を父親に付けます。

不二夫は「嗅覚」を手に入れたことで、「思い出」を取り戻し、人間らしい感情を復活させます。しかし、コンピューターのカラダでは「思い出」が、リアルに再現され、さらに忘れることができないことが判明します。過去、自分の弟・輝夫と、妻を裏切ったことのある不二夫は、その思い出に侵されるように発狂していく…。

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②「ミッション」(2006年)

山田輝夫は、配達中に死亡事故事故を起こした罪で実刑を食らいます。輝夫は出所後、友人に事故は故意で起こしたことを語ります。頭のなかに「このままスピードを落とさずに交差点に突っ込め」という「衝動」が突如沸き起こり、それに従ったのだと。
出所後の輝夫はこれまで以上に、「衝動」に身を任せます。いつしか、自分の「衝動」は天からのお告げであり、その行動により世界が救われているという考えに支配されていきます。

そんな中、自分と同じ匂いのする二階堂桜と街で何度もすれ違うようになります。そこに「衝動」と同じ運命を感じた輝夫は、ますます暴走。しかし、友人・佐久間一郎に、「それはお前が女に惚れて行動しているだけで、適当な理由を付けて自己満足しているだけだ」と身も蓋もない指摘をされ、呆然と立ち尽くすのでした。これまでの自分の「衝動」を、すべて振り返るように…。

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③「あやつり人形」(2001年)

大学3年生の百瀬由香里は、就活の真っ最中。そんな折、母親・みゆきの病が再発。すべてをリセットしたくなった由香里は、恋人・佐久間一郎との関係を解消し、大学を辞めると宣言します。自暴自棄になった由香里を、兄・清武は説得します。周りの優しさを実感しながらも、由香里はどこか違和感を覚えます。それと同時に、他人の頭の上に隕石のような黒い岩が見えるようになります。

様々な人の感情に振り回される日々。そんななかで、母親の治療をめぐり、自分の優しさが、実は自分の思う方向に相手を誘導する暴力的な側面があることに気づきます。本当の優しさとは、相手がどうなろうと、見守り続けることだと。

優しさの裏にある“支配”が、黒い岩の正体でした。ふと見ると、自分の優しさにまるで「あやつられる」ようにタップダンスをし続ける兄・清武の姿が。そんな兄を、由香里と母は、優しく抱きとめるのでした。

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人間は自由になれるのか?

この3編は、登場人物たちにつながりがあり、「あやつり人形」⇒「ミッション」⇒「箱詰め男」という時間軸でみれば整合性が取れます。さらに、「あやつり人形」では「箱詰め男」を彷彿とさせる1シーンも登場し、物語がループしているような印象も受けます。

しかし、このシカケ自体には囚われる必要はないと思います。

と言うのも、今回の「襲ってくるもの」に登場する人物たちは、「自分の中にある考え」に固執しすぎる結果、痛い目を見ます。そして、その考えから解き放たれ、「自由」を獲得した瞬間に、新しい一歩を踏み出そうとするのです。

今回の舞台でいうと、散りばめられたシカケにこだわり、無理に物語の整合性にこだわることこそが、本来の意味を見失う結果になるのではないでしょうか?
(イキウメファンなら、ドキリとする“時枝”なども登場しますが、そこにも意味はない)

様々なモノから一歩ひいて、自由になること。自由意志なんてモノは存在しないのかもしれない。無意識を含めて、現代を生きる人々は様々なモノに影響されてしまうから。でもだからこそ、人はもっと自由でいい。

そんなことを訴えかけている舞台だった気がしています。

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イキウメの舞台は、短編が長編に、長編が短編に、どんどんと進化を続けていきます。今回の「襲ってくるもの」が、今後どのように発展していくのか…。

当日券もあるようなので、ぜひ劇場へ。

 

“概念”を奪われるという、本公演にも繋がる「散歩する侵略者」の原作本はこちら。

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「今、僕たちに出来る事。あと、出来ない事。from 2001 to 2018。」感想:シベリア少女鉄道

“できない事”を魅せる

f:id:mAnaka:20180507145051j:plain★★★★★★☆☆☆☆ 6点

あらすじ

高校教師の鳥居一人は、突如 演劇部の顧問に任命されてしまいます。その演劇部は、異常なまでに演劇に“こだわり”を持つ廣瀬希美が演出を務めています。廣瀬の熱量に押されて、他の部員たちは白け気味。しかし、過去に同じような“こだわり”で映画作りに没頭していた鳥居は、廣瀬に感化され、徐々に理想の演劇の実現に向けて協力をするようになっていきます。

しかし、ほのぼのとした高校ライフの裏側で地球にはある危機が…。地球に回避不可能な小惑星が迫っていました。天才科学者の有田瑞生は、「反物質爆弾」を用いた、小惑星の破壊を計画。その実現のために自らのクローンまで作り、地球を救おうとします。

17年前に演じられたシベリア初期作の再演です。
ベタベタな展開のなかに、シベリアらしい毒と仕掛けを盛り込んだ舞台なのですが、これを駆け出しの時代に上演しているのが、本当に恐ろしい…。

<ネタバレ>演劇の構造を疑う

その後の展開を追っていくと、
反物質爆弾」計画はまさかの失敗。小惑星を破壊し尽すことができず、破片が月に激突。地球の崩壊は免れたものの、月が消滅していまい、さらにその影響により女性の生理がこない世界になってしまいます。

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 新しい生命が誕生しなくなった世界になったことで、子ども達のために演劇の作っていた廣瀬は絶望し、AV女優にまで身を落としてしまいます。そんな折、鳥居と廣瀬はナゾの組織に誘拐されます。その組織の指導者は有田博士。子どもが生まれない世界を救うため、クローンの実用化を目指しており、鳥居と廣瀬を実験体にしようとしていました。

ここで、有田博士の同僚である遠藤実が離反。衝撃の事実が明らかになります。実は、有田博士はクローンの世界を作り出すために、わざと月を壊したことが分かります。さらに、鳥居は有田博士が作り出したクローンであると…。

こんな世界を変えるために、鳥居と廣瀬は過去にタイムトラベルし、歴史を変えようとします。そのなかで、実は鳥居は有田博士の「実の子」であり、悲しい過去の経験から、クローンであると思い込んでいただけであることが判明します。

すべての事実が明らかになり、鳥居は有田博士を説得。過去の時間軸で、小惑星をしっかり破壊して大円上。

というのが表面上の舞台です。

では、この舞台でどんな仕掛けがあったのか?
そのカギは、タイムトラベルにあります。

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タイムトラベルする度に、過去と未来の自分が出会ってしまいます。同じ登場人物を2人同時に舞台に上げる必要があります。映画なら編集でどうにかなりますが、演劇ではそういうワケにもいきません。最初は早着替えなどで対応するも、いよいよどうにもならなくなり、仮面を被せた代役が登場。たどたどしいモノマネで突破しようと試行錯誤。

時間軸が複雑に絡み、同じ登場人物が3人以上登場する場面では、ついに等身大パネルが登場。等身大パネル+ナレーションで舞台が進みます。そんなことを繰り返していくうちに、舞台は代役の人形だらけに…。途中から似せる気もない「バルタン星人」や「マリオ」の人形などが登場し、いよいよカオス化。

クライマックスでは、「ここで宇多田ヒカルの書き下ろし楽曲が流れる」「宇宙で小惑星が破壊される迫力の映像」など、脚本の願望がテキストで表示されながら、幕を閉じていきます。

つまり、「(やりたくても)出来なかったこと」をコンテンツ化してしまうというアクロバティックな着地を見せつけられるのです。

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創作への“こだわり”をテーマとして匂わせながら、圧倒的な裏切りに終始ニヤニヤしてしまいます。

演劇とは、限られた演者・限られた道具で「出来ること」を表現する芸術だとすると、この舞台は、限られた演者・限られた道具で「出来なかったこと」を表現してしまっています。

作中に登場する「反物質」ならぬ、「反演劇」です。(もちろん、良い意味で)

今のシベリア少女鉄道を知っているからこそ安心して見ていられますが、これをまだ立ち上げたばかりの時代にやってしまう精神性は異常です。土屋亮一さんが、最初から「演劇」の構造をハックしていることがよく分かります。

 

再演時にこそ、味が出る不思議な舞台でした。最初から再演も想定して作られていたとするなら、土屋亮一の頭脳恐るべし。ぜひ、この「ぶっ壊れ演劇」を劇場で目撃してください。

「ラスト・ナイト・エンド・ファースト・モーニング」感想:悪い芝居

忘れたものでデキている。

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★★★★★★★☆☆☆ 7点

あらすじ

日野朝子には思い出がない。いつも家にいる歳のいった母との記憶がすべて。
あの夜、幼い自分をインターネットの墓場で見つける。

温森春男はすべての記憶を失った。スマホをわずかな所持金だけを持って。
あの夜、「マイハニー」にリダイヤルする。この人と新しい時間を作ってゆきたいと思う。

乾潤には忘れられない記憶がある。最近、少しだけ忘れ始めたような気がする。
あの夜、義理の兄がやってくる。もう一度、思い出させるために。

 ある悲しい事件をキッカケに、「記憶を失った人」と「記憶を封印した人」たちが、本当に「忘れる」ためにもがき苦しむ物語です。

<ネタバレ>「思い出せない」ことは「忘れる」ことではない

 舞台は、
①子供の頃の記憶を失った(でもそれに気づいていない)ニートの朝子
②記憶喪失になったが、その代わりにサヴァン的な記憶法を手に入れた春男
③朝子の父親ながら、過去を封印している潤
の3つの視点で進行します。

ストーリーの本筋をざっと追うと、
光市母子殺害事件」を彷彿とさせる事件が19年前に発生します。襲われた母親は死亡。当時1歳の乳児は重症を負いますが、一命を取り留めます。この時、事件のあった部屋の隣には父親がいたのですが、仕事をしていたせいで犯行に気づかなかった…。
この時の乳児が「朝子」で、父親が「潤」です。

この事件をキッカケに、朝子は母方の祖母に引き取られ、事件を遠ざけたまま育っていきます。潤も事件を忘れるように生きていきます。

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一方、記憶を失った春男は、マイハニーこと「温森風化」と幸せに暮らしていました。そんな春男の元に、インターネットテレビの取材が舞い込みます。この番組では、春男の過去を知る人物がいないか、インターネットで呼びかけを行います。すると、19年前の事件を起こし、7年前に出所した“犯人”なのではないか、という風評が巻き起こります。

実は、潤は“犯人”が出所した際に「石部金吉」という人物に“犯人”の殺害を依頼。金吉は“犯人”を樹海で撲殺…と思いきや“犯人”は生きており、そのショックで記憶だけ失っていました。樹海を彷徨ううちに自殺した「温森春男」の所持品を見つけ、自分のことだと思い込みます。恋人を自殺で失った風化は、この“犯人”を「春男」として愛することに決めます…。

そして、この騒動をキッカケに、3者の運命が交差します。

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 結果として、「朝子」は事件の記憶を取り戻し、「潤」は事件と向き合うことができます。「朝子」は「春男」を犯人ではない、と断言。「春男」の記憶は戻らないままですが、日常に帰っていきます。

すべてが回復するわけではないですが、ほのかに希望を感じさせるラストになっています。ただ1点、“犯人”が生きていることに責任を感じた金吉が、春男と風化の自宅を訪れること以外は…。

「許すこと」=「忘れること」

この舞台は「記憶」をテーマにしています。登場人物たちは、どこかしら欠落した「記憶」を持って生きています。

朝子は否定しましたが、「春男」は結局“犯人”だったのだと思います。これだけ条件が揃った人間が、複数いるとは考えにくいです。朝子は記憶を取り戻しながらも、春男を許したのではないでしょうか?
「許す」とは、つまり「忘れる」こと。こうすることで、始めて事件を自分の中に溶かし込むことができるのです。

「覚えていないのではなく、忘れること」
「思い出さないようにするのではなく、忘れること」

そうして、ようやく一歩を踏み出せるのではないでしょうか。

朝子のセリフにもあるように、人間は「覚えていることではなく、忘れていること」で構成されています。

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そう考えると、「乾潤」という真逆の意味を持つ漢字で構成された潤は、最初から引き裂かれる運命にあったのでしょう。彼だけが鮮明な記憶を持ちながら、実は彼だけが実際の現場を見ていない。そのことに生涯苛まれ続けた彼に、本当の意味で「忘れる」日が訪れるとすれば、日野朝子という新しい朝を予感させる名前を持つ少女との生活にしかないのでしょう。

 

アナログとデジタルが混ざったような不思議な舞台装置で、繰り広げられる物語は、一見難解なように見えて、丁寧な演出のお陰で、とてもシンプルで力強いものになっていました。
舞台の三方は、控室の鏡台のようになっており、一人何役もこなす役者たちがそこで着替えるという演出もとても新鮮でした。
ここにも、「記憶」の地続き感を彷彿とさせる想像力があったように思います。途切れているようで、脈々と受け継がれたモノ(記憶)で私(役者)はデキているのだと。

また、インターネットテレビ局というギミックも素晴らしかった。特定のサービスを風刺しているのではなく、現在のインターネットが抱える「無責任」なのに「大衆に影響」することで、「集団の暴力性」を増長するという問題点を、具現化したような存在でした。

 

残りは大阪公演のみですが、新境地に至った悪い芝居をぜひ目撃してください。

悪い芝居の過去作はAmazonでも見られます。

↓↓↓

「働けど働けど」感想。:カジャラ

働く姿の滑稽さ

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★★★★★★★★★☆ 9点

概要 

ラーメンズ小林賢太郎が作・演出を手がけるコント公演「カジャラ」。
その第三弾にあたる「働けど働けど」。

俳優・お笑い芸人・劇団人、いろんな血筋を入れながら独特の世界を作り出す唯一無二の舞台です。

<ネタバレ>感想

あくまでコント公演なので、それぞれ独立した短編になっているのですが、本公演は一貫して「労働」について語り続けます。
特に、カジャラはコントとコントの間の“幕間”もあえて見せる演出をしており、全体で世界観を醸し出しています。
今回のテーマに当てはめてみると、“幕感”も役者が「働く」姿を描いています。

そういう意味でも、とても「演劇的」なのに、ひとつひとつは徹頭徹尾コントになっており、それがスゴい…。

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どのコントも「働くことの滑稽さ」を描いているように感じました。「働くこと」にもがき続けるおじさん達の姿が、笑いを誘います。カジャラは毎回そうですが、女性がいないことも、滑稽さを助長しています。

しかし、「働くおじさん」たちを愛する視線が常に存在しています。そのことが、どこか哀愁を漂わせています。

特に公演名にも採用されている石川啄木の「一握の砂」をモチーフにした、小林賢太郎の一人コントは秀逸。

「働けど働けど〜」と、「われ泣きぬれて〜」というあまりにも有名な短歌をモチーフに、海辺で砂の城を作るサラリーマン。砂の城は完成するたびに“丸いもの”に壊されてしまいます。作っては壊され、作っては壊され…。
しかし、ある時“丸いもの”では壊せない砂の城が完成します。曰く「壊れるたびに土台が強くなっているから」。

サラリーマンは“丸いもの”を慈しむようにした後、せっかく作った砂の城を自らの手で壊します。さらに前に進むために…。

おそらく小林賢太郎の「労働に対する考え方」が表現されているのでしょう。作っては壊され、作っては壊され、気づけば周りから一定の評価を受ける場所まで来たが、さらに高みを目指すために、壊し続けていくのでしょう。

自らの紹介にも記載していますが、「芸人名<自分が作ったコント」を目指す小林賢太郎にとって、「一握の砂」は「作家名<短歌」になっている大きな目標なのかもしれません。

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カジャラの舞台は「大人たるもの」がYoutubeでも公開されています。これを見て、ぜひ劇場でも体感してみてください。

youtu.be

 

カジャラの前回公演「裸の王様」こちら

「隣の芝生も。」感想:MONO

隣の芝生が青いのは、フィクションである

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★★★★★☆☆☆☆☆ 5点

あらすじ

古い雑居ビルは配管が古くて水回りの調子が悪い。
隣合わせに入居している2つの会社。
互いのことは詳しく知らない。 印象だけで羨ましく思い合っている。
無関係に思われたそれぞれの物語は、いつしか交差し、絡み合って行く。

片方の会社はうだつの上がらない、元ヤクザたちが始めようとしている探偵会社。お世話になった“おやっさん”が持つビルを、格安で貸してもらっている。
もう片方は、兄妹でやっているスタンプ屋さん。友人たちが手伝っているものの、放浪グセのある“お兄ちゃん・新乃助”のせいもあり、経営が行き詰まっている。

ある日、いつもの如く新乃助が失踪。その捜索を、元ヤクザの探偵達に依頼したところから物語が動き始める。

来年30周年を迎える、円熟したMONOの俳優5人と、若手俳優5人が演じる、人情系伏線ミステリーになっています。

<ネタバレ>表面を見れば誰もが幸せ

元ヤクザたちは、どこか間抜けな憎めない奴ら。元々向いてなかった上に、「33K」という香港の団体をモメて、“修ちゃん”という構成員以外はみんな足を洗ったばかり。

組長だった“ボス”は、探偵業を軌道に乗せたいが、「33K」から命を狙われているという噂にビクつく毎日。まだヤクザである修ちゃんが、「33K」の刺客を捕まえるべく雑居ビルに張り込みを開始。怪しいやつを捕まえてみると、なんとそいつこそ失踪中の新乃助でした。

スタンプ屋の金策に困った新乃助は、「33K」からボス殺しの依頼を受けてしまっていたのです。しかし、素人の新乃助はどうすることもできずウロウロしているところを修ちゃんに捕まってしまったという顛末です。

なんともバカバカしい「暗殺劇」であったことが分かり、無事 新乃助もスタンプ屋に帰り一件落着…というわけには、当然ながら行きません。

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おやっさんが倒れたことをキッカケに、“おやっさんの娘・栞”が登場。元々スタンプ屋とも繋がりがあり、探偵屋とスタンプ屋の架け橋的に動き回るのですが、ある日、おやっさんの荷物からトンデモナイものを見つけてしまいます。
実は、おやっさんは組を裏切り「33K」に情報を流すことでお金を稼いでいた内通者。それをボスに気づかれたと勘違いしたおやっさんは、「33K」にボスを殺させようとしていた張本人であることが分かるのです。

その後も、新乃助がただ巻き込まれた訳ではなく、実はおやっさんから家賃を半分にする代わりに探偵たちを盗聴する役割を与えられていたことなどが判明していきます。

若者たちが和気あいあいとしているスタンプ屋にも、薄暗い影が潜んでいたことが浮き彫りになってきます。

直後に修ちゃんも銃撃され、病院送りに。堪忍袋がキレたボスたちは、おやっさんを殺すために特攻を図ります。子供の頃からおやっさんのヤクザ稼業に反感を持っていた栞の協力も得て、武器を片手に突撃していくヤクザたちの姿から舞台が暗転。

エピローグとして、スタンプ屋の現状が語られます。
無事回復した修ちゃんがスタンプ屋におり、楽しげな雰囲気。しかし、どうやら探偵たちは無事には済まなかったようで、探偵屋は廃業している模様。 相変わらず新乃助は失踪しているものの、妹の“波留”も「お兄ちゃん離れ」をして、予てからの夢だった留学に行く準備を進めています。この波留が舞台で最も裏表がない人物なのですが、そんな彼女にも秘密がある…という匂いをさせて、舞台の幕が閉じていきます。

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裏切り者は誰だ?

ヤクザたちが無事でないのに、修ちゃんと栞が日常に戻れているのはおかしな話。つまり、修ちゃんと栞は「33K」と繋がったおやっさん側の裏切り者です。繋がりのないはずの修ちゃんと栞が、なぜか一緒に登場することが多かったことも頷けます。

新乃助が刺客のフリをした、スパイだったのはすでに言及したどおりですが、そうなってくると波留すら怪しい存在に。
新乃助が隣を盗聴していることも気付くはずですし、舞台のなかでは長時間トイレに入っている描写もありました。「トイレ掃除していた」と言い訳していましたが、新乃助の代わりに盗聴していたと考えれば合点がいきます。

そもそも金策に困っていたにも関わらず、このタイミングで留学に行けるのも不思議な話です。留学費は、コトが片付いた「33K」からもらった報酬と考えるのが自然ではないでしょうか?
天真爛漫なフリをしてヤクザたちをハメた波留に寒気を覚えます…。

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MONOらしい独特の「言葉づかい」や「間」や「登場人物」にほっこりした笑いが生まれるのですが、その裏でこんな凄惨な企みが渦巻いていることにゾッとします。

隣の芝生が青く見えるのは、隣のことをよく知らないからだ。
内情を知ってみると、結局「隣の芝生も」…。

「昔話デスマッチ」感想:柿喰う客

演劇空間の作り方

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あらすじとネタバレ

観劇三昧下北沢店の開店1周年を記念して行われた「路上演劇祭」。演劇ファンにはおなじみの、本多劇場横のヴィレッジヴァンガード前の路上で行われたお祭りです。

柿喰う客は寒さがこたえる夕方の出番。

風も強く、人通りも多く、周りもうるさいという、演劇としては劣悪な環境でどのような演劇を見せてくれるのか?という不安と期待を抱いた観劇でした。

内容としては「七味まゆみ」と「大村わたる」のデスマッチ。プロレスのような雰囲気でお互いに昔話を繰り出し、先に「めでたしめでたし」させた方が勝ちという奇想天外な闘い。
このムチャクチャな展開を、審判「加藤ひろた」と実況「田中穂先」がいい味出しながら支えます。

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桃太郎で攻める七味に対し、浦島太郎で守る大村。観客を巻き込みながら、ライブ感ある展開で路上は笑いっぱなし。

上手だな、と思ったのは「投げ銭」の受け取り方。
桃太郎の話を完結させるために、金銀財宝が必要になるのですが、それを観客からの「投げ銭」で賄おうとする荒業。演劇の流れに「投げ銭」を取り込むのは天才的な発想ですね。
昨今のSHOWROOMを始めとする「投げ銭ビジネス」の真逆を行くアイデアには感服しました。

 また、路上という環境を逆手に取り、観客に交ざった柿喰うのメンバーが“ガヤ”を飛ばすことで、プロレス会場のような雰囲気を作り出し、ちゃんと演劇空間を演出していました。

特に中屋敷法仁さんは、スーツに数珠を持ち、ストロングゼロを飲みながら煽ってくるという、フィクショナルなのに本当にいそうな、なんとも言えないキャラクターを演じていました。久しぶりに、舞台に立つ中屋敷さんもまた見てみたいな…。

ガードレールを、リングロープに見立てるなど、路上という環境をこれでもかとハックして、虚構を作り出す手腕はさすがの一言。
これが投げ銭だけで見られるのだから、大満足の30分でした。

今後も、ゲリラ的に市街劇とかやって欲しいなと。

「目頭を押さえた」感想:iaku + 小松台東

田舎者に爽やかな風が吹く

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あらすじ

山間にある人見村。衰退の一途を辿るこの村の林業と、この地で古くから行われてきた喪屋における葬儀。この2つの伝統を担ってきた中谷家と、8年前に都市から越してきた杉山家は親戚関係にあったが、杉山が葬祭コンサルタント業を人見村に持ち込んだことで、家族間の溝は深かった。ただ、同い年の高校生の娘たちは、子どもの頃から親友のような存在である。杉山の娘・遼は、母の形見である一眼レフカメラを愛用し、村に暮らす人たちのポートレートを「遺影」と称して撮影してきた。中谷の娘・修子は、遼の写真が大好きでいつも率先してモデルになった。そんな修子と遼が迎えた高校三年生の夏。この小さな田舎でセンセーショナルな出来事が起きる。それは、村に暮らす大人や子ども、すべての無名人たちの未来を、哀しみを伴う希望で包んだ。

全編関西弁で演じられていた舞台を、小松台東の演出で宮崎弁で再解釈した作品。
「方言」や「地方」にアイデンティティを見出す2つの劇団による共通点が、見事なコラボレーションを生み出していました。

<ネタバレ>ムラ社会の温かみと生きにくいさ

舞台のテーマは「田舎から去る者・残る者」の分断です。

杉山の娘「遼」は、高校生の写真コンクールで全国1位になったことをキッカケに、東京の美大への進学を志すようになります。
元々は妻の実家でしかない人見村で孤軍奮闘する杉山は娘の東京進学に猛反対。さらに、嫉妬も含めた複雑な感情を抱く従姉妹で親友の「修子」、村から著名な写真家が生まれる可能性に色めき立つ村人たちなど、様々な思惑が渦巻くことになります。

そこに女子高校生ならではの思春期の悩みも絡み、最初は温かい田舎暮らしに見えていた人見村も、“ムラ社会”として息の詰まる部分が見えてきます。

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遼を持ち上げる村の組合は、遼の個展を開こうと動きます。この取り組みの中心人物は修子の父親で、遼の叔父にあたる「中谷」。
中谷は村の伝統を守る使命を抱えながらも、遼の東京進学を後押しする懐の深い人物として描かれますが、跡取りである息子「一平」がゲームばかりで一向に独り立ちしないという悩みも抱えています。

そんなある日、決定的な事件が起こります…。

目頭を押さえるとは?

村の中心人物である「中谷」は、本職である林業の作業中に木から落ちて事故死します。伝統を重んじていた中谷のために、“喪屋(もや)”を使った葬儀が執り行われることに。

この“喪屋”の葬儀とは、小屋のなかに屍体とその跡取りが入り「目頭を押さえる」というモノ。林業が盛んだったこの地域では、木から落ちて死亡する人が多かった。その屍体は落ちた衝撃で目玉が飛び出てしまう。その“穢れ”を取り払うために、跡取りが文字通り「目頭を押さえて」目玉をもとに戻してあげる儀式である、ということが判明します。

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本来は現代的な葬儀を生業とする杉山ですが、人見村の村人として生きることを決意し、この伝統的な葬儀を自ら執り行います。嫌がる一平を無理やり“喪屋”に引き込む杉山は、絶叫しながらも一平と共に、この葬儀を完遂します。

そして、場面転換。
事故から半年先の話として、遼が東京へと旅立つシーンが描かれます。
そこには人間として成長した一平の姿も。

遼と修子とのわだかまりは完全には無くなっていないながらも、田舎を旅立つ者・田舎に残る者、両方に爽やかな風が吹き、幕が閉じます。

目頭を押さえたその先に

“喪屋”での葬儀とは、通過儀礼を意味しています。
おそらく、過去には跡取りが完全に独立する儀式として執り行われていたはずです。

ゲームばかりの一平はもちろんのこと、娘を自分勝手に縛り付ける杉山も、この儀式を通過していないため、どこか子供でした。

最後のシーンで杉山の登場はありませんでしたが、遼が東京に進学することを許していることからも、杉山も一平と同様に成長していることが分かります。

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 なかなか表現しにくい、「田舎の温かさ」「その裏に潜む生きにくさ」を見事に描ききっています。だからこそ、そこを旅立つ人にも残る人にも、希望が見えるのだと思います。静かにココロを打つ、傑作でした。

 

iakuの舞台は『エダニク』しか観たことなかったのですが、『目頭を押さえた』もそれに匹敵するほどの完成度。地方の劇団だからこそ表現できる可能性を存分に見せつけられました。これからもチェックしていきたいと思います。