郵便配達は二度チケットをもぎる

演劇未経験者が、駄文をこねます。

「青いポスト」感想:アマヤドリ

私達の町にもある「青いポスト」

f:id:mAnaka:20171124161831j:plain★★★★★★★★★☆ 9点

あらすじ

どこにでもある小さな町。とあるルールに支配されています。それは「年に一度、町で一番悪い奴を投票で決定し、選ばれた人間は消される」というもの。“セレクション”と呼ばれるこの制度により、町は平和を保っています。

投票は、事前に予想が発表されます。近年、予想の精度が上がってきており、ほぼ外れない。そのため、選ばれる人はある程度の心の準備ができます。

町の外れに住む双子が物語の主人公。事前予想では姉・ユリナが選ばれるはずだったのですが、ここに来て急に妹・カンナが事前予想の1位に。そこから物語がスタートします。

女性だけで演じられる、アマヤドリらしい設定の舞台。
善と、偽善と、悪について考えさせられます。

<ネタバレ>選ばれたのは“悪”なのか?

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双子は複雑な家庭環境で育っているのですが、性格がねじ曲がっているわけではなく、素直に「やりたいことが、やりたい。やりたくないことは、やりたくない」という信念のもと、行動してしまいます。
このジャイアン的な行動が、昔からイジメっ子体質として捉えられており、今回の投票結果につながっていました。

“セレクション”が浸透しているため、相手を慮るのが当たり前の社会で、我を通す存在は“悪”と捉えられてしまいます。

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投票当日、事前予想から変わらず妹・カンナが消される対象となります。しかし、実際に一番票を集めたのは姉・ユリナでした。
カンナはわざとバレる不正を行い、自らを犠牲にすることで、姉・ユリナを救ったことが判明します。
不正を働いたものは、その年の“悪”として消される。
そのルールにより、カンナは消されたのでした。

それを知ったユリナは、見つかるはずもないカンナを探し回ります。

そんな中、アマヤドリ得意の群舞が始まり、舞台は幕を閉じます。

群舞でも、ユリナは他の人とうまく合わせることができずズレていきます。
まるで双子の生き方を象徴するように…。

おそらく、来年はユリナが“セレクション”で選ばれるという余韻を残しながら…。

私たちの町にもある「青いポスト」とは?

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“セレクション”は“悪”を炙り出すシステムではなく、「分かりやすい“悪”」を全員で指差し合うシステムでしかありませんでした。目に見えない“悪”を裁くことはできない。
町人たちを“善者”ではなく“偽善者”にするものでした。

群舞に入る前に交わされる、刈谷とミズキの会話にこの舞台のテーマが凝縮されています。

刈谷「私、実は本が読めないの」
ミズキ「でも、いつも本読んでるじゃない?」
刈谷「本読んでるフリしてる方が、頭良さそうに見えるから」
ミズキ「頭良さそうに見えるフリしている時点で、かなり頭悪いから」
刈谷「そうか(笑)」

全体の雰囲気からすると、なんとも間の抜けた会話なのですが、舞台のテーマを理解した後だと、とても笑えるものではありません。
「“善”のフリしている時点で、かなり“悪”だから…」と。

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はみ出し者を叩くことで、多数派の安定を図る。
これは、この町だけではなく、いまの日本でも起きていることです。
なにかあればすぐ炎上し、全員で袋叩きにしにいく。
「年に一度」とは言わず、日本では毎日投票が行われているのではないでしょうか?

そう考えた時に、「青いポスト」とは、「青い鳥がアイコンの、ツイートをポストする」あのソーシャルメディアに読み替えられるような気がします。

「青いポスト」は、私達のすぐ身近にあります。
私達は、ユリナを赦せるでしょうか?

アマヤドリの新しいトライとは?

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今回の舞台で、アマヤドリが行った新しい試みがありました。
舞台上で、コロコロと場面を転換し、細切れにしながら物語を紡いでいくということ。

分かりやすい例を挙げると、“セレクション”管理委員会の委員長である水口は、委員会メンバーの前では高圧的な女性、友達の前では悩み多き女性、という顔を使い分けています。この二面性を、まるでスイッチャーで切り替えるように、舞台上で展開。

演劇なのに、まるでテレビや映画でシーンを繋げて編集しているような演出になっています。
しかも、登場人物の統一性を役者の身体性1つで表現しなければいけないので、相当な演技力が求められます。(下手すると、イマどっちの水口?となり兼ねない)

このスイッチングも、先程あげたソーシャルメディア上ので、アカウントの使い分けのように感じました。誰しもが、表のアカウントと、裏のアカウントを持つように…。

 

ポストトークで語られていましたが、ラストの群舞(ユリナだけみんなからズレていく)は、物語が生まれる前から完成していたそうです。様々なモノが積み重なって物語ができるという、なんともサブイボなエピソードです。

全体としては、女性だけで濃密に仕上げ、物語中からも男性を排除したことで、テーマ性がソリッドになっていました。もう一つの「崩れる」は、男性だけで演じながら、どこまでも女性の影を感じる舞台になっており、この対比も面白かった。

 

2つの舞台を通じて「新しいアマヤドリ」を表現されていましたが、過去作に比べてテーマがダイレクトに伝わってくる作りになっていました。12/3まで公演は続きますので、興味のある方はぜひ「新しいアマヤドリ」を目撃しに行ってください。

「リアリティ」と「映像的な演出手法」の2つの武器を手に入れた、今後のアマヤドリに大注目です。

 

「崩れる」の感想はこちら。

theaterist.hatenablog.com