郵便配達は二度チケットをもぎる

演劇未経験者が、駄文をこねます。

「ちょっと、まってください」感想:ナイロン100℃

ペテン師は死なねばならないのか?

f:id:mAnaka:20171204120450j:plain★★★★★★★★☆☆ 8点

あらすじ

ケラリーノ・サンドロヴィッチが自称するように「不条理喜劇」なので、あらすじに大きな意味はないのですが、話の“スジ”としては以下のような感じ。

「金持ち一家」に「乞食の家族」が侵入してくる物語。
「乞食の妹」は、「金持ちの息子」と、その「婚約者」が演じる“ままごと”に無理やり割り込み、そのまま「金持ちの息子」の嫁の座を勝ち取ります。しかし、それも束の間、今度は「金持ちの父親」の妻の座に居座り、「金持ちの母親」を家から追い出します。「金持ち一家」の親戚になった「乞食の家族」は、当然のように“金持ちの家”に居座るようになり…。

辻褄もロジックも合わない世界で、繰り広げられる「断絶」の物語。
別役実的「不条理劇」とケラリーノ的「ナンセンス」を行ったり来たりすることで、不穏な空気を生み出しつつ、観客が笑い続けるという、なんとも新しい舞台です。

<ネタバレ>ペテン師はなぜ死んだのか?

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時間軸や因果律を無視しながら、状況だけが目まぐるしく変化。辻褄を合わせようと見ていても、どんどん置いて行かれます。しかし、観客に思考停止させないシカケもあり、それが余計に不穏な空気を生み出しています。

それが「不条理」な状況に対して、困惑している登場人物が常にいる、ということ。

まるで観客の気持ちを代弁するように、起きている状況が飲み込めず右往左往する人物が常に設定されています。ただし、そんな彼らも時間が経つと状況に馴染んでおり、観客を混乱させる急先鋒になっていたりする…。その積み重ねが、舞台の世界観を作り上げます。

しかし、そんな世界のなかで、唯一観客側に立つ人物が、ペテン師を自称する「使用人」の男。彼は“第四の壁”を突破して、度々観客に状況を説明する狂言回しの役割も担っています。

この物語の結末は、ペテン師が死ぬことで幕を閉じます。
なぜ、ペテン師が死ななければならなかったのか?ここに舞台のポイントがあるような気がします。

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「ペテン師」が、「金持ち一家」の金を横領して逃げようとする場面がクライマックス。罪をなすりつけられた「金持ちの父親」が冤罪で処刑されそうになるのですが、最後の最後に「ペテン師」の嘘がバレ、なぜか共犯のはずの「メイド」にナイフで刺されて死亡。しかし、それは「ペテン師」の見た夢だったのですが、目覚めた「ペテン師」は「乞食の妹」が暴発させた拳銃の玉が当たり、やっぱり死亡。しかししかし、「メイド」が犯人ということで逮捕され、死にかけの「ペテン師」だけを残し、みな舞台を退場していきます。

ここでは、“誰が殺した”ということは意味がなく、“なぜ殺される”必要があったのか、が重要だと思います。

「ペテン」とは、つまり「虚構(フィクション)」。最後の最後に「虚構」が敗れた、というのが「ペテン師」の死によって表現されているのではないでしょうか?
登場人物が別役実ばりに「男1」「男2」という名前のない配役になっているにも関わらず、「ペテン師」と「メイド」だけには名前が設定されているもの、いかにもです。

では、何に「虚構」は破れたのか?それは「現実」です。
そもそも「現実」とは「不条理」なもの。
つまり「不条理劇」の正体とは、ままならない「現実」を映し出している鑑のようなモノであり、「ペテン師(=虚構)」は「不条理劇(=現実)」に破れたのです。

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実際に、フィクションが現実に追い越されてから長い時間が経っています。そんな時代に「フィクション」ができることはなにか?は演劇の大きなテーマだと、勝手に思っています。

だから「ペテン師(=虚構)」は銃で撃たれながらも「(自分が)いるのか、いないのか、分からない」と言いながら、死んでいくのでしょう。

 「ペテン師」の屍体の上に、「消毒液の雪」が降り注ぐシーンで幕が閉じます。ここにケラさんの「虚構」に対する態度表明のようなモノを感じました。

「“現実”に敗れ去った“虚構”は、一度リセット(=消毒)してしまうしかない」。

別役実をオマージュすることで、自らに取り込んだケラさんは、この後どんな「“現実”を超える“虚構”」を見せてくれるのでしょうか?
(それまでは、「ちょっと、まってください」てことかも…)

無粋にも批評的に捉えるなら…

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「不条理劇」なので、見たまま・感じたままを愉しめばいいのでしょうが、あえて解釈を入れたい箇所がひとつありました。

それが、度々登場する「市民運動」というモチーフ。
町では「賛成派」と「反対派」が抗争を繰り広げているのですが、“何に”賛成/反対なのかは語られません。参加している市民も“何に”賛成/反対なのかを理解していません。
しかし、「賛成派」と「反対派」は交わることがなく、挙句の果てに「中立派」まで登場する始末。

舞台を通して語られる「断絶」や「分かり合えなさ」を強化するアイテムであることは間違いないのですが、その批評性は現代日本にも届いている気がします。

この無意味な抗争は、ネットに蔓延る「ネトウヨ」的想像力と、「文化左翼」的想像力の闘いそのものに見えてきます。とりあえず「賛成」or「反対」の立場を取り、その姿勢を表明すること自体が“生きる糧”になっている人々。その行動は、「不条理劇」と同じく状況には何も影響を及ぼせません。本人たちは“何に”賛成/反対なのか分かってないのだから。

そう考えると、なんともケラさんらしい、毒たっぷりの皮肉に見えてきます…。

 

 

「不条理劇」と聞くと、尻込みする人も多いかと思います。個人的にも、あまり得意ではないです。
ただ、そこはナイロン100℃。「不条理劇」なのに爆笑できる、最高のエンターテイメントに仕上げてくれています。

左脳が置いて行かれても、右脳では愉しめる。
いま、ナイロン100℃でしか見れないと断言できる舞台でした。 

 

 ナイロン100℃の前作「社長吸血記」

別役実の戯曲集はこちら↓