郵便配達は二度チケットをもぎる

演劇未経験者が、駄文をこねます。

「ラスト・ナイト・エンド・ファースト・モーニング」感想:悪い芝居

忘れたものでデキている。

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★★★★★★★☆☆☆ 7点

あらすじ

日野朝子には思い出がない。いつも家にいる歳のいった母との記憶がすべて。
あの夜、幼い自分をインターネットの墓場で見つける。

温森春男はすべての記憶を失った。スマホをわずかな所持金だけを持って。
あの夜、「マイハニー」にリダイヤルする。この人と新しい時間を作ってゆきたいと思う。

乾潤には忘れられない記憶がある。最近、少しだけ忘れ始めたような気がする。
あの夜、義理の兄がやってくる。もう一度、思い出させるために。

 ある悲しい事件をキッカケに、「記憶を失った人」と「記憶を封印した人」たちが、本当に「忘れる」ためにもがき苦しむ物語です。

<ネタバレ>「思い出せない」ことは「忘れる」ことではない

 舞台は、
①子供の頃の記憶を失った(でもそれに気づいていない)ニートの朝子
②記憶喪失になったが、その代わりにサヴァン的な記憶法を手に入れた春男
③朝子の父親ながら、過去を封印している潤
の3つの視点で進行します。

ストーリーの本筋をざっと追うと、
光市母子殺害事件」を彷彿とさせる事件が19年前に発生します。襲われた母親は死亡。当時1歳の乳児は重症を負いますが、一命を取り留めます。この時、事件のあった部屋の隣には父親がいたのですが、仕事をしていたせいで犯行に気づかなかった…。
この時の乳児が「朝子」で、父親が「潤」です。

この事件をキッカケに、朝子は母方の祖母に引き取られ、事件を遠ざけたまま育っていきます。潤も事件を忘れるように生きていきます。

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一方、記憶を失った春男は、マイハニーこと「温森風化」と幸せに暮らしていました。そんな春男の元に、インターネットテレビの取材が舞い込みます。この番組では、春男の過去を知る人物がいないか、インターネットで呼びかけを行います。すると、19年前の事件を起こし、7年前に出所した“犯人”なのではないか、という風評が巻き起こります。

実は、潤は“犯人”が出所した際に「石部金吉」という人物に“犯人”の殺害を依頼。金吉は“犯人”を樹海で撲殺…と思いきや“犯人”は生きており、そのショックで記憶だけ失っていました。樹海を彷徨ううちに自殺した「温森春男」の所持品を見つけ、自分のことだと思い込みます。恋人を自殺で失った風化は、この“犯人”を「春男」として愛することに決めます…。

そして、この騒動をキッカケに、3者の運命が交差します。

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 結果として、「朝子」は事件の記憶を取り戻し、「潤」は事件と向き合うことができます。「朝子」は「春男」を犯人ではない、と断言。「春男」の記憶は戻らないままですが、日常に帰っていきます。

すべてが回復するわけではないですが、ほのかに希望を感じさせるラストになっています。ただ1点、“犯人”が生きていることに責任を感じた金吉が、春男と風化の自宅を訪れること以外は…。

「許すこと」=「忘れること」

この舞台は「記憶」をテーマにしています。登場人物たちは、どこかしら欠落した「記憶」を持って生きています。

朝子は否定しましたが、「春男」は結局“犯人”だったのだと思います。これだけ条件が揃った人間が、複数いるとは考えにくいです。朝子は記憶を取り戻しながらも、春男を許したのではないでしょうか?
「許す」とは、つまり「忘れる」こと。こうすることで、始めて事件を自分の中に溶かし込むことができるのです。

「覚えていないのではなく、忘れること」
「思い出さないようにするのではなく、忘れること」

そうして、ようやく一歩を踏み出せるのではないでしょうか。

朝子のセリフにもあるように、人間は「覚えていることではなく、忘れていること」で構成されています。

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そう考えると、「乾潤」という真逆の意味を持つ漢字で構成された潤は、最初から引き裂かれる運命にあったのでしょう。彼だけが鮮明な記憶を持ちながら、実は彼だけが実際の現場を見ていない。そのことに生涯苛まれ続けた彼に、本当の意味で「忘れる」日が訪れるとすれば、日野朝子という新しい朝を予感させる名前を持つ少女との生活にしかないのでしょう。

 

アナログとデジタルが混ざったような不思議な舞台装置で、繰り広げられる物語は、一見難解なように見えて、丁寧な演出のお陰で、とてもシンプルで力強いものになっていました。
舞台の三方は、控室の鏡台のようになっており、一人何役もこなす役者たちがそこで着替えるという演出もとても新鮮でした。
ここにも、「記憶」の地続き感を彷彿とさせる想像力があったように思います。途切れているようで、脈々と受け継がれたモノ(記憶)で私(役者)はデキているのだと。

また、インターネットテレビ局というギミックも素晴らしかった。特定のサービスを風刺しているのではなく、現在のインターネットが抱える「無責任」なのに「大衆に影響」することで、「集団の暴力性」を増長するという問題点を、具現化したような存在でした。

 

残りは大阪公演のみですが、新境地に至った悪い芝居をぜひ目撃してください。

悪い芝居の過去作はAmazonでも見られます。

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