郵便配達は二度チケットをもぎる

演劇未経験者が、駄文をこねます。

「野がも」感想:アマヤドリ

ヘドウィグの死は必然である

f:id:mAnaka:20180925123755j:plain

★★★★★★★★☆☆ 8点

あらすじ

やり手の豪商ヴェルレ。その息子であるグレーゲルスは17年ぶりに山にある工場から自宅に戻ります。
その昔、ヴェルレと過去に共同で事業をしていたエクダル老人は、そのとき行われた不正の罪を一手にかぶって投獄され、その一族は没落。また、老エクダルの息子ヤルマールの妻ギーナは、かつてのヴェルレ家の家政婦で、ヴェルレの愛人だった過去が…。
ヴェルレは過去の負い目から、老エクダルに雑務を与え、ヤルマールとギーナの結婚を仕組み、仕事の面倒も見ています。
すべての状況を理解したグレーゲルスは、その正義感を昂ぶらせ、虚偽の上に成り立つエクダル家の目を覚まそうとします…。

「近代演劇の父」と言われるヘンリック・イプセンの“絶望古典”を、アマヤドリが演じます。

<ネタバレ>スッキリするほどの絶望

f:id:mAnaka:20180925132251j:plain

グレーゲルスが現れるまで、ヤルマールギーナ、そして一人娘で14歳のヘドウィグは、老エクダルと共にささやかながら幸せに暮らしていました。しかし、「真実」を知り、そこから回復することでしか本当の幸せを手に入れられないと考えるグレーゲルスは、ギーナがかつてヴェルレと関係を持っていたことを明らかにします。

当然、ヤルマールは激怒し、家を出ていこうとします。しかし、自宅にしか依り何処のないヤルマールは、何かと理由を付けて家出を延期しようとします。そんな旦那の性格を見抜いているギーナは、ヤルマールにある程度カッコを付けさせて、事態を修復しようとします。

そこにさらなる追い打ちが。大事な一人娘のヘドウィグは、実はヴェルレギーナの間に生まれた子である、ということがヤルマールに示唆されます。
※今回の舞台ではあくまでも示唆されるだけで確定はしていません。

f:id:mAnaka:20180925133700j:plain

エクダル家には納屋があり、そこでは“野鴨”が大切に育てられています。元々はヴェルレが狩りの時に銃撃した鴨で、撃たれたあと海底に沈んでいたところを猟犬に引き上げられ、最終的にエクダル家で飼育されています。そんな“野鴨”をヘドウィグは可愛がっています。

愛する父親から疑惑の目を向けられ悩むヘドウィグに、グレーゲルスは自己犠牲の精神を教えます。曰く「自分の一番大切なモノである“野鴨”を殺せば、ヘドウィグの大きな愛に父親も気付いてくれる」と。

実際にヤルマールも様々な事実が明るみに出た後で、「“野鴨”を絞め殺してやりたい」と発言しており、ヘドウィグはその提案を受け入れます。ヘドウィグは納屋に入り、“野鴨”ともつれながら、一発の銃弾を放ちます。しかし、その銃口ヘドウィグの胸に向いていました。

息絶えるヘドウィグを見て、絶望するエクダル家の人々。さらにグレーゲルスは自分のもたらした結果に狼狽えます。エクダル家の下に住む医師レリングは、冷静にヘドウィグが自殺したことを確認します。人生には“ウソ”という処方箋が必要だと考えるレリングは、理想と真実の暴力を振りかざすグレーゲルスこそ悪魔であると断罪し、舞台の幕が下ります。

ヘドウィグはなぜ自死したのか?

f:id:mAnaka:20180925141020j:plain

野鴨を殺しに行ったヘドウィグはなぜ自死する必要があったのか?

賢い子供であるヘドウィグは、自分が両親の「本当の子供」ではない(あるいは「本当の子供」だと思われていない)ことに気付いています。そんな中で提案された「“野鴨”殺し」。納屋で“野鴨”を見ているうちに、“野鴨”と自分の境遇を重ねてしまったのではないでしょうか。

●“野鴨”→ヴィルレが撃ち落とすことで飼育鳥としての生を受け、エクダル家に飼育されている。

ヘドウィグ文字通りヴィルレから生を受け、エクダル家で養われている。

こう考えることで、“野鴨”=自分であり、「“野鴨”殺し」=自死につながります。“野鴨”を殺さないと父親の愛を取り戻せないのであれば、自分が死ぬしかないと…。
※上にも書きましたがヤルマールの「“野鴨”を絞め殺してやりたい」という発言がさらにヘドウィグを苦しめることになっています。

皮肉なことに「“野鴨”殺し」=自死で、ヤルマールの愛を取り戻すことができています…。

f:id:mAnaka:20180925141032j:plain

しかし、イプセンの絶望はまだ続きます。
医師レリングはこの事件すら時間が立てばヤルマール自己憐憫のネタにしかならないと看破。未来への希望を一ミリも残しません。

 

鴨といえば、キルケゴールの話が思い出されます。

毎年晩秋の頃になると、鴨の群れは食べ物を求めて南へと旅立っていった。ある日、その土地に住む老人がその鴨の群れに餌を与え始めた。すると、その年から、冬になっても、その鴨の群れは南へと飛び立たなくなってしまった。飛ばなくとも食べ物にありつけるので、その太った鴨たちは飛ぶことすらしなくなった。そして、その老人が亡くなり、その飼いならされた鴨たちは、食べ物を求めて自分の翼で飛ぶ必要にやっと駆られたが、もはや飛ぶことはできず、全ての鴨が死んでしまったという。

エクダル家をヴィルレに飼われた“野鴨”だと見立てると、飼いならされた鴨のまま緩やかな死に向かうのか、無理矢理にでも真実に向けて飛び立つのか…。どちらをとっても完全な幸せが訪れない、そんな絶望が下敷きにあるのかもしれません。

 

身体表現を得意としていたアマヤドリが『崩れる』以降で手にした会話劇という武器。その武器により磨きがかかり、うまく身体表現を組み込もうという試行錯誤が見られました。より鋭利に尖っていくアマヤドリにこれからも注目です。

 

theaterist.hatenablog.com

 

イプセンの原作戯曲はこちら
↓ ↓ ↓