郵便配達は二度チケットをもぎる

演劇未経験者が、駄文をこねます。

「目頭を押さえた」感想:iaku + 小松台東

田舎者に爽やかな風が吹く

f:id:mAnaka:20180205135614j:plain★★★★★★★★★☆ 9点

あらすじ

山間にある人見村。衰退の一途を辿るこの村の林業と、この地で古くから行われてきた喪屋における葬儀。この2つの伝統を担ってきた中谷家と、8年前に都市から越してきた杉山家は親戚関係にあったが、杉山が葬祭コンサルタント業を人見村に持ち込んだことで、家族間の溝は深かった。ただ、同い年の高校生の娘たちは、子どもの頃から親友のような存在である。杉山の娘・遼は、母の形見である一眼レフカメラを愛用し、村に暮らす人たちのポートレートを「遺影」と称して撮影してきた。中谷の娘・修子は、遼の写真が大好きでいつも率先してモデルになった。そんな修子と遼が迎えた高校三年生の夏。この小さな田舎でセンセーショナルな出来事が起きる。それは、村に暮らす大人や子ども、すべての無名人たちの未来を、哀しみを伴う希望で包んだ。

全編関西弁で演じられていた舞台を、小松台東の演出で宮崎弁で再解釈した作品。
「方言」や「地方」にアイデンティティを見出す2つの劇団による共通点が、見事なコラボレーションを生み出していました。

<ネタバレ>ムラ社会の温かみと生きにくいさ

舞台のテーマは「田舎から去る者・残る者」の分断です。

杉山の娘「遼」は、高校生の写真コンクールで全国1位になったことをキッカケに、東京の美大への進学を志すようになります。
元々は妻の実家でしかない人見村で孤軍奮闘する杉山は娘の東京進学に猛反対。さらに、嫉妬も含めた複雑な感情を抱く従姉妹で親友の「修子」、村から著名な写真家が生まれる可能性に色めき立つ村人たちなど、様々な思惑が渦巻くことになります。

そこに女子高校生ならではの思春期の悩みも絡み、最初は温かい田舎暮らしに見えていた人見村も、“ムラ社会”として息の詰まる部分が見えてきます。

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遼を持ち上げる村の組合は、遼の個展を開こうと動きます。この取り組みの中心人物は修子の父親で、遼の叔父にあたる「中谷」。
中谷は村の伝統を守る使命を抱えながらも、遼の東京進学を後押しする懐の深い人物として描かれますが、跡取りである息子「一平」がゲームばかりで一向に独り立ちしないという悩みも抱えています。

そんなある日、決定的な事件が起こります…。

目頭を押さえるとは?

村の中心人物である「中谷」は、本職である林業の作業中に木から落ちて事故死します。伝統を重んじていた中谷のために、“喪屋(もや)”を使った葬儀が執り行われることに。

この“喪屋”の葬儀とは、小屋のなかに屍体とその跡取りが入り「目頭を押さえる」というモノ。林業が盛んだったこの地域では、木から落ちて死亡する人が多かった。その屍体は落ちた衝撃で目玉が飛び出てしまう。その“穢れ”を取り払うために、跡取りが文字通り「目頭を押さえて」目玉をもとに戻してあげる儀式である、ということが判明します。

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本来は現代的な葬儀を生業とする杉山ですが、人見村の村人として生きることを決意し、この伝統的な葬儀を自ら執り行います。嫌がる一平を無理やり“喪屋”に引き込む杉山は、絶叫しながらも一平と共に、この葬儀を完遂します。

そして、場面転換。
事故から半年先の話として、遼が東京へと旅立つシーンが描かれます。
そこには人間として成長した一平の姿も。

遼と修子とのわだかまりは完全には無くなっていないながらも、田舎を旅立つ者・田舎に残る者、両方に爽やかな風が吹き、幕が閉じます。

目頭を押さえたその先に

“喪屋”での葬儀とは、通過儀礼を意味しています。
おそらく、過去には跡取りが完全に独立する儀式として執り行われていたはずです。

ゲームばかりの一平はもちろんのこと、娘を自分勝手に縛り付ける杉山も、この儀式を通過していないため、どこか子供でした。

最後のシーンで杉山の登場はありませんでしたが、遼が東京に進学することを許していることからも、杉山も一平と同様に成長していることが分かります。

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 なかなか表現しにくい、「田舎の温かさ」「その裏に潜む生きにくさ」を見事に描ききっています。だからこそ、そこを旅立つ人にも残る人にも、希望が見えるのだと思います。静かにココロを打つ、傑作でした。

 

iakuの舞台は『エダニク』しか観たことなかったのですが、『目頭を押さえた』もそれに匹敵するほどの完成度。地方の劇団だからこそ表現できる可能性を存分に見せつけられました。これからもチェックしていきたいと思います。

「俺を縛れ!」感想:柿喰う客

 キャラクターを剥ぐ行為の先に…

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あらすじ

2008年に“黒歴史的娯楽大作”として上演された作品の10年ぶりの再演。

幕府の大御所・徳川吉宗が大往生を遂げたことをきっかけに
悪名高き将軍・徳川家重は奇妙な難題を諸大名に突きつける!

横暴な幕府にも、心を削り身を削り一途な忠義を貫き通すのは
「三度の飯より主君が命」を信条とする弱小田舎大名・瀬戸際切羽詰丸!

その過激な滅私奉公は、やがて天下を揺るがす大騒動に発展する!?

久しぶりの徹頭徹尾エンタメで、濃密な笑いを届けてくれる舞台です。
主演の永島敬三さんは、10年前のこの舞台のオーディションに落ちたときから「柿喰う客」との関わりが始まったというから、なんとも因縁めいたモノを感じます。
近年では、柿喰う客の顔になりつつある永島敬三さんの進化っぷりも存分に満喫できる舞台となっています。

<ネタバレ> 裏切れないので、裏切ります。

日本一有名な忍者・服部半蔵は、実は忍者集団が代々名前を受け継ぐ襲名スタイルを採用しており、それが現代まで続いているという設定が導入されています。

代々「服部半蔵」というキャラを押し付けられて、それを守ってきた集団において、過去に一人だけ個性を許された「33代目服部半蔵」の話として、舞台の幕が上がります。

33代目が仕えたのは、頭の病で身体までおかしくなってしまった徳川家重
彼は「キャラお定めの令」を発令。諸大名に強制的に“キャラ”を振り分け、そのキャラを演じないと死罪にすると悪法です。

諸大名たちは、「ドスケベ大名」「モノマネ大名」「ラーメン大名」など荒唐無稽なキャラクターを演じさせられます。
この時、役者はアドリブ的な対応を見せることがあり、役者として“演じる”ことと、大名として変なキャラを“演じる”ことが、多層的に絡み合っていきます。

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そんな悪法の最大の被害者は、永島敬三さん演じる田舎の貧乏大名「瀬戸際切羽詰丸」です。
彼は「三度の飯より主君が命」という侍バカ。そんな彼はあろうことか「裏切り大名」というキャラを設定されてしまいます。1ヵ月以内に幕府に対して謀反を起こすことを強制されてしまうのです。

幕府を裏切らないと、お上に楯突くこととなり、裏切ったら裏切ったでお上と戦うことになる。そんなトンデモナイ状況に追い詰められていくのです。

キャラクターが染み付いてしまう瞬間

貧乏大名の切羽詰丸は、戦コンサルタントの「族谷軍兵衛」の助けも借り、謀反の準備を進めていきます。「(アソコが)ちっちゃい大名」という不名誉なキャラに不満を持ち、本気で幕府を“裏切る”ことに決めた「浦見深左衛門」も仲間に加わり、幕府と戦えるだけの戦力が本当に集まってしまいます。

このあたりから、切羽詰丸はキャラとしての「裏切り大名」ではなく、本気で天下取りを考える「裏切り大名」となっていきます。
この変化は、何かのキッカケがあるわけではなく、それこそ学校や職場で「キャラが定着する」ように、自然と馴染んでいきます。

アフタートーク永島敬三さん自身も「どこで裏切り始めるのか自分でも分からずに演じている」と仰っていたのは、興味深いです。

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結果、切羽詰丸の謀反は成功し、徳川家重を追い詰めます。
しかし、徳川家重が悪名高い将軍を“演じて”おり、すべて息子の「徳川家治」を引き立てるための“演技”であったことが判明します。
本来は忠義心に篤い切羽詰丸が、この話に感動している最中、切羽詰丸は息子である「瀬戸際勝々丸」に“裏切られ”て殺されます。

そして後日談。
「キャラお定めの令」が無くなったことで、33代目服部半蔵も自由に生きていくことを認められます。しかし、服部半蔵というキャラが無くなった彼は、その後すぐに亡くなってしまうのでした。

「キャラなんていらない。個性的に生きれば良い」という教訓めいたメッセージを発信した途端に、「ある程度“縛り”がある人生の方が楽である」というもう一つの事実を突きつけてくるのでした。

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キャラの下に、本当の自分なんていない

カーテンコールの前に、永島敬三さんが裸で登場するというドタバタがあり、幕が閉まります。
この時、観客は俳優・永島敬三がフザケているようにしか見えません。実際、田中穂先さんも「敬三さん、服着てください!」と役名ではなく、名前で呼んでいます。

しかし、この俳優・永島敬三も、台本通りに“演じられた”役であることは明らかです。そもそも、永島敬三さん自身がやっていたとしても、それは「柿喰う客の舞台に立つ永島敬三」というキャラクターを演じているわけです。

与えられた役である大名に、さらに劇中でキャラクターを割り当てたのと逆に、与えらた役が終わっても、まだキャラクターが存在することを表現しているのだと思います。

キャラクターの下にいるのは「本当の自分」などではなく、「別のキャラクター」が潜んでいるだけである。自分に置き換えて考えてみると…。

このドタバタ劇によって最後の「“縛られる”人生の方が楽である」というメッセージが、より鋭利になって観客に突きつけられます。

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エンタメ色が強い本作でも、虚構とリアルの境界線を曖昧にして、どこか居心地の悪い感覚を植え付けてくるのは、さすが柿喰う客。
劇団員が増えたことで、ストーリーラインもがっちり固まっており、本公演らしい仕上がりになっていました。

意外だったのは、「族谷軍兵衛」を演じた神永圭佑さんや、「浦見深左衛門」を演じた平田裕一郎さんの存在感。演技もうまく、舞台に爽やかな空気を呼び込んでおり、かなり効果的に効いていました。
2.5次元系の俳優さん”と侮っていましたが、認識を改めました。

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 残すところ、あと8ステージですが、少しでも興味がある方はぜひ本多劇場へ。
演劇が初めてという方にもオススメです。

 中屋敷法仁さんが演出した2.5次元系舞台はこちら

「残雪の轍/キャンディポップベリージャム!」感想:シベリア少女鉄道

ダイレクト因果応報

f:id:mAnaka:20171211124156j:plain★★★★★★★★☆☆ 8点

あらすじ

いつも通りのシベリア少女鉄道なので、あらすじと呼べるようなモノは存在しないのですが…。

戦国時代風の時代設定のなか、伊賀と甲賀に分かれて闘うことになってしまった忍の話。エビ中安本彩花さん、元℃-ute中島早貴さんが友人でありながら闘わなければならなくなった因果が、現代を生きる子孫にまで影響してしまう…。

という内容の舞台。
(こう書くと、とてもマトモな舞台に感じますが)

この設定を「これでもか」とハックしまくって、ピタゴラスイッチ的な構造に仕立て上げてしまう。
土屋亮一さんの変態性が全開です。

<ネタバレ>ダイレクト因果応報

今回仕掛けられた「シカケ」は、“因果応報” がダイレクトに子孫を直撃してしまう、というモノ。

どういう事かと言うと、
「前世の親がマグロを食べれば、摂取したDHAの影響で子孫のIQが200を超える秀才になる」「前世の親が田舎に隠居すれば、子孫も田舎っぺになる」など、先祖の影響をダイレクトに受けてしまい、それによって舞台がドンドン変化します。

女子寮で繰り広げられていた恋愛ドタバタコメディが、トランプ VS. 金正恩 にまで発展し、最終的には「物の怪の館」にまで変化します。
(ほんと何言ってるか分からないと思いますが) 

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メインキャストである安本彩花さんをトランプに、中島早貴さんを金正恩にしてしまう狂気性は演劇でしか見れないと断言できます。アイドル✕タブーで、ここまで美味しく仕上げてしまうのは、アイドルを使うのがウマい土屋亮一さんならでは。

因果は暴走し、カッパが出てきたり、豚が出てきたり、巨大化した半獣人が出てきたり、これどう収束させるの?という所まで展開した途端、少年ジャンプを代表する「ド◯ゴンボール」のBGMが流れてきて、伏線を一気に回収していきます。

どうやったらこんなこと思いつくの?という感動すら込み上げてきた場面で幕を閉じます。

 

今回は、いつもの「赤坂レッドシアター」から場所を移し、巨大な「池袋サンシャイン劇場」での公演でした。そのためか、いつもよりネタを早めに展開している印象がありました。

いつもなら1時間くらい観客を焦らしに焦らして、一気にオチに持っていく展開なので、今回はカタルシスは弱め。それでも十二分にキモチイイのですが。

次回は小さめのハコで、大暴れして欲しいなと。

土屋亮一さんが演出したエビ中の舞台はこちら↓
アイドルの使い方、お見事です。

「ちょっと、まってください」感想:ナイロン100℃

ペテン師は死なねばならないのか?

f:id:mAnaka:20171204120450j:plain★★★★★★★★☆☆ 8点

あらすじ

ケラリーノ・サンドロヴィッチが自称するように「不条理喜劇」なので、あらすじに大きな意味はないのですが、話の“スジ”としては以下のような感じ。

「金持ち一家」に「乞食の家族」が侵入してくる物語。
「乞食の妹」は、「金持ちの息子」と、その「婚約者」が演じる“ままごと”に無理やり割り込み、そのまま「金持ちの息子」の嫁の座を勝ち取ります。しかし、それも束の間、今度は「金持ちの父親」の妻の座に居座り、「金持ちの母親」を家から追い出します。「金持ち一家」の親戚になった「乞食の家族」は、当然のように“金持ちの家”に居座るようになり…。

辻褄もロジックも合わない世界で、繰り広げられる「断絶」の物語。
別役実的「不条理劇」とケラリーノ的「ナンセンス」を行ったり来たりすることで、不穏な空気を生み出しつつ、観客が笑い続けるという、なんとも新しい舞台です。

<ネタバレ>ペテン師はなぜ死んだのか?

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時間軸や因果律を無視しながら、状況だけが目まぐるしく変化。辻褄を合わせようと見ていても、どんどん置いて行かれます。しかし、観客に思考停止させないシカケもあり、それが余計に不穏な空気を生み出しています。

それが「不条理」な状況に対して、困惑している登場人物が常にいる、ということ。

まるで観客の気持ちを代弁するように、起きている状況が飲み込めず右往左往する人物が常に設定されています。ただし、そんな彼らも時間が経つと状況に馴染んでおり、観客を混乱させる急先鋒になっていたりする…。その積み重ねが、舞台の世界観を作り上げます。

しかし、そんな世界のなかで、唯一観客側に立つ人物が、ペテン師を自称する「使用人」の男。彼は“第四の壁”を突破して、度々観客に状況を説明する狂言回しの役割も担っています。

この物語の結末は、ペテン師が死ぬことで幕を閉じます。
なぜ、ペテン師が死ななければならなかったのか?ここに舞台のポイントがあるような気がします。

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「ペテン師」が、「金持ち一家」の金を横領して逃げようとする場面がクライマックス。罪をなすりつけられた「金持ちの父親」が冤罪で処刑されそうになるのですが、最後の最後に「ペテン師」の嘘がバレ、なぜか共犯のはずの「メイド」にナイフで刺されて死亡。しかし、それは「ペテン師」の見た夢だったのですが、目覚めた「ペテン師」は「乞食の妹」が暴発させた拳銃の玉が当たり、やっぱり死亡。しかししかし、「メイド」が犯人ということで逮捕され、死にかけの「ペテン師」だけを残し、みな舞台を退場していきます。

ここでは、“誰が殺した”ということは意味がなく、“なぜ殺される”必要があったのか、が重要だと思います。

「ペテン」とは、つまり「虚構(フィクション)」。最後の最後に「虚構」が敗れた、というのが「ペテン師」の死によって表現されているのではないでしょうか?
登場人物が別役実ばりに「男1」「男2」という名前のない配役になっているにも関わらず、「ペテン師」と「メイド」だけには名前が設定されているもの、いかにもです。

では、何に「虚構」は破れたのか?それは「現実」です。
そもそも「現実」とは「不条理」なもの。
つまり「不条理劇」の正体とは、ままならない「現実」を映し出している鑑のようなモノであり、「ペテン師(=虚構)」は「不条理劇(=現実)」に破れたのです。

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実際に、フィクションが現実に追い越されてから長い時間が経っています。そんな時代に「フィクション」ができることはなにか?は演劇の大きなテーマだと、勝手に思っています。

だから「ペテン師(=虚構)」は銃で撃たれながらも「(自分が)いるのか、いないのか、分からない」と言いながら、死んでいくのでしょう。

 「ペテン師」の屍体の上に、「消毒液の雪」が降り注ぐシーンで幕が閉じます。ここにケラさんの「虚構」に対する態度表明のようなモノを感じました。

「“現実”に敗れ去った“虚構”は、一度リセット(=消毒)してしまうしかない」。

別役実をオマージュすることで、自らに取り込んだケラさんは、この後どんな「“現実”を超える“虚構”」を見せてくれるのでしょうか?
(それまでは、「ちょっと、まってください」てことかも…)

無粋にも批評的に捉えるなら…

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「不条理劇」なので、見たまま・感じたままを愉しめばいいのでしょうが、あえて解釈を入れたい箇所がひとつありました。

それが、度々登場する「市民運動」というモチーフ。
町では「賛成派」と「反対派」が抗争を繰り広げているのですが、“何に”賛成/反対なのかは語られません。参加している市民も“何に”賛成/反対なのかを理解していません。
しかし、「賛成派」と「反対派」は交わることがなく、挙句の果てに「中立派」まで登場する始末。

舞台を通して語られる「断絶」や「分かり合えなさ」を強化するアイテムであることは間違いないのですが、その批評性は現代日本にも届いている気がします。

この無意味な抗争は、ネットに蔓延る「ネトウヨ」的想像力と、「文化左翼」的想像力の闘いそのものに見えてきます。とりあえず「賛成」or「反対」の立場を取り、その姿勢を表明すること自体が“生きる糧”になっている人々。その行動は、「不条理劇」と同じく状況には何も影響を及ぼせません。本人たちは“何に”賛成/反対なのか分かってないのだから。

そう考えると、なんともケラさんらしい、毒たっぷりの皮肉に見えてきます…。

 

 

「不条理劇」と聞くと、尻込みする人も多いかと思います。個人的にも、あまり得意ではないです。
ただ、そこはナイロン100℃。「不条理劇」なのに爆笑できる、最高のエンターテイメントに仕上げてくれています。

左脳が置いて行かれても、右脳では愉しめる。
いま、ナイロン100℃でしか見れないと断言できる舞台でした。 

 

 ナイロン100℃の前作「社長吸血記」

別役実の戯曲集はこちら↓

「青いポスト」感想:アマヤドリ

私達の町にもある「青いポスト」

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あらすじ

どこにでもある小さな町。とあるルールに支配されています。それは「年に一度、町で一番悪い奴を投票で決定し、選ばれた人間は消される」というもの。“セレクション”と呼ばれるこの制度により、町は平和を保っています。

投票は、事前に予想が発表されます。近年、予想の精度が上がってきており、ほぼ外れない。そのため、選ばれる人はある程度の心の準備ができます。

町の外れに住む双子が物語の主人公。事前予想では姉・ユリナが選ばれるはずだったのですが、ここに来て急に妹・カンナが事前予想の1位に。そこから物語がスタートします。

女性だけで演じられる、アマヤドリらしい設定の舞台。
善と、偽善と、悪について考えさせられます。

<ネタバレ>選ばれたのは“悪”なのか?

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双子は複雑な家庭環境で育っているのですが、性格がねじ曲がっているわけではなく、素直に「やりたいことが、やりたい。やりたくないことは、やりたくない」という信念のもと、行動してしまいます。
このジャイアン的な行動が、昔からイジメっ子体質として捉えられており、今回の投票結果につながっていました。

“セレクション”が浸透しているため、相手を慮るのが当たり前の社会で、我を通す存在は“悪”と捉えられてしまいます。

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投票当日、事前予想から変わらず妹・カンナが消される対象となります。しかし、実際に一番票を集めたのは姉・ユリナでした。
カンナはわざとバレる不正を行い、自らを犠牲にすることで、姉・ユリナを救ったことが判明します。
不正を働いたものは、その年の“悪”として消される。
そのルールにより、カンナは消されたのでした。

それを知ったユリナは、見つかるはずもないカンナを探し回ります。

そんな中、アマヤドリ得意の群舞が始まり、舞台は幕を閉じます。

群舞でも、ユリナは他の人とうまく合わせることができずズレていきます。
まるで双子の生き方を象徴するように…。

おそらく、来年はユリナが“セレクション”で選ばれるという余韻を残しながら…。

私たちの町にもある「青いポスト」とは?

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“セレクション”は“悪”を炙り出すシステムではなく、「分かりやすい“悪”」を全員で指差し合うシステムでしかありませんでした。目に見えない“悪”を裁くことはできない。
町人たちを“善者”ではなく“偽善者”にするものでした。

群舞に入る前に交わされる、刈谷とミズキの会話にこの舞台のテーマが凝縮されています。

刈谷「私、実は本が読めないの」
ミズキ「でも、いつも本読んでるじゃない?」
刈谷「本読んでるフリしてる方が、頭良さそうに見えるから」
ミズキ「頭良さそうに見えるフリしている時点で、かなり頭悪いから」
刈谷「そうか(笑)」

全体の雰囲気からすると、なんとも間の抜けた会話なのですが、舞台のテーマを理解した後だと、とても笑えるものではありません。
「“善”のフリしている時点で、かなり“悪”だから…」と。

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はみ出し者を叩くことで、多数派の安定を図る。
これは、この町だけではなく、いまの日本でも起きていることです。
なにかあればすぐ炎上し、全員で袋叩きにしにいく。
「年に一度」とは言わず、日本では毎日投票が行われているのではないでしょうか?

そう考えた時に、「青いポスト」とは、「青い鳥がアイコンの、ツイートをポストする」あのソーシャルメディアに読み替えられるような気がします。

「青いポスト」は、私達のすぐ身近にあります。
私達は、ユリナを赦せるでしょうか?

アマヤドリの新しいトライとは?

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今回の舞台で、アマヤドリが行った新しい試みがありました。
舞台上で、コロコロと場面を転換し、細切れにしながら物語を紡いでいくということ。

分かりやすい例を挙げると、“セレクション”管理委員会の委員長である水口は、委員会メンバーの前では高圧的な女性、友達の前では悩み多き女性、という顔を使い分けています。この二面性を、まるでスイッチャーで切り替えるように、舞台上で展開。

演劇なのに、まるでテレビや映画でシーンを繋げて編集しているような演出になっています。
しかも、登場人物の統一性を役者の身体性1つで表現しなければいけないので、相当な演技力が求められます。(下手すると、イマどっちの水口?となり兼ねない)

このスイッチングも、先程あげたソーシャルメディア上ので、アカウントの使い分けのように感じました。誰しもが、表のアカウントと、裏のアカウントを持つように…。

 

ポストトークで語られていましたが、ラストの群舞(ユリナだけみんなからズレていく)は、物語が生まれる前から完成していたそうです。様々なモノが積み重なって物語ができるという、なんともサブイボなエピソードです。

全体としては、女性だけで濃密に仕上げ、物語中からも男性を排除したことで、テーマ性がソリッドになっていました。もう一つの「崩れる」は、男性だけで演じながら、どこまでも女性の影を感じる舞台になっており、この対比も面白かった。

 

2つの舞台を通じて「新しいアマヤドリ」を表現されていましたが、過去作に比べてテーマがダイレクトに伝わってくる作りになっていました。12/3まで公演は続きますので、興味のある方はぜひ「新しいアマヤドリ」を目撃しに行ってください。

「リアリティ」と「映像的な演出手法」の2つの武器を手に入れた、今後のアマヤドリに大注目です。

 

「崩れる」の感想はこちら。

theaterist.hatenablog.com

「崩れる」感想:アマヤドリ

人間関係という共犯関係

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あらすじ

閉鎖が決まっている山奥の宿「クモの巣」。そこに大学からの仲良し男子4人組が泊まりに来る。宿の従業員含めて全員が男性というなか、外は台風で大荒れに。とある告白をキッカケに、仲良し4人組の関係も荒れてくる。

4人組は数ヶ月前にキャンプを計画していた。女性も4人呼び、4対4のキャンプコンパを予定したいたのだが、女性側に一人ドタキャンが出てしまったためキャンプの計画がお流れに。しかし実際には、幹事であった針谷を除く3対3でキャンプを行っており、キャンプに参加した猪俣は、あろうことか針谷が狙っていた「ミライちゃん」とデキてしまったと言う。その事実を「クモの巣」で突然告げられた針谷は、激昂。会社を辞めると騒ぎ始めた…。

アマヤドリらしくない、男性のみの会話劇。
不在の女性を巡った“崩壊劇”が幕を開けます。

<ネタバレ>一番(気持ち)悪いのは…?

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その後も「ミライちゃん」をめぐり、男たちが言い争いを繰り広げます。
「なんでこいつと仲良かったんだっけ?」と思えてくるほど、お互いの嫌なところが見えてくる。人間の関係なんて、所詮は危うい“共犯関係”でしかないということを、嫌というほど見せつけてきます。

ほぼ崩壊しかけているのに、それでも修復しようとする姿に、男同士ならではの気持ち悪さを感じました。
(個人的にも高校からの仲良し6人組がおり、とても他人事ではなく…。)
女性同士なら、スッパリ切ってしまうのではないのかと…。

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針谷は猪俣が「ミライちゃん」を奪ったことをすでに知っていた、というのが舞台のオチ。針谷は会社で一人リストラの対象を選ぶ必要があり、この「ミライちゃん」事件をダシに、猪俣に自主退職してもらおうと画策していたと告白し、関係が完全に破綻。猪俣は「帰る」と言い残し、台風のなか出ていってしまいます。

しかし、この針谷の告白も強がりにしか聞こえず、痛々しい。
「ミライちゃん」への固執をさらに、さらけ出す結果になってしまいます。

そんな針谷に「クモの巣」の主人である園田は、「自分を卑下し続けるのは、しょせん自分を守り続けていることでしかない」と語りかけます。
まるで観客の気持ちを代弁してくれるような園田ですが、頭の上にはプレゼントとしてもらった王冠をかぶったまま説教していているという、何とも居心地の悪い状態…。
作・演出の広田淳一さんも語っておりましたが、「裸の王様」感が演出されております。

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人間関係において「正義」など存在しない、ということが如実に語られていると思います。人間関係とは、どこまで行っても共犯関係でしかないと。

園田と針谷が語らうなか、雨足はどんどん激しくなり、舞台は暗くなっていきます。

園田「もたないかもな…」
針谷「え?」
園田「あ…」
という不吉な会話を残し、完全に暗転し、舞台は終わります。

「もたなかった」のは、人間なのか、建物なのか…。

アマヤドリの新しいトライとは?

今回の舞台は、女性のみで演じる「青いポスト」との2公演になっており、2つ合わせて「新しいアマヤドリ」と銘打たれています。

そんな「崩れる」で新しくトライされたこととして、広田淳一さんは 「会話の意図的な重ね合わせ」を挙げています。

ふつうの会話を録音して聞いてみると、意外なほど会話が重なっている。
相手が話し終わる前に話し始めたり、相手が入ってきても止めなかったり…。
確かにその通りです。

その「会話の重なり」をあえて舞台で再現したと言います。
どこからどこまでが「重なる」かを、台本でも細かく指定されており、役者は困惑したとか。しかし、舞台を見ている方は、ほぼ違和感なく聞くことができます。いつも体験していることだからでしょう。

アマヤドリの舞台には欠かせない“群舞”も無く、全編会話だけで繰り広げられるリアル劇。このリアリティを手に入れたアマヤドリは、この武器をどう料理していくのでしょうか?

 

女性を“不在”にすることで、より女性の存在を感じさせる舞台でした。
いつも物語を駆動するのは、女性ですね。

 

「青いポスト」の感想はこちら。

theaterist.hatenablog.com

「散歩する侵略者」感想:イキウメ

イキウメ的「愛は地球を救う」

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あらすじ

海に近い町に住む、真治と鳴海の夫婦。真治は数日間の行方不明の後、まるで別の人格になって帰ってきた。素直で穏やか、でもどこかちぐはぐで話が通じない。不仲だった夫の変化に戸惑う鳴海を置いて、真治は毎日散歩に出かける。町では一家慘殺事件が発生し、奇妙な現象が頻発。取材に訪れたジャーナリストの桜井は、“侵略者”の影を見る_。

今年、長澤まさみ松田龍平で映画化もされた、イキウメの代表作。
イキウメの真髄である“人間臭いSF”の傑作です。 

<ネタバレ>愛は地球を救うのか?

この舞台は、「地球侵略を狙う宇宙人3体が、地球人の人格を乗っ取り偵察していた」と文章にするとチープこの上ない話が繰り広げられます。主人公・真治も宇宙人に乗っ取られた一人。
ただ、この舞台を名作足らしめている要素として、宇宙人は「地球人から“概念”を奪う」能力を持っているという設定があります。
宇宙人たちは、地球人に「所有」「自由」「自他」等々に関する質問をし、相手がイメージした“概念”を根こそぎ奪う存在として描かれます。タイトルにある「散歩する侵略者」とは、散歩しながら地球人たちを見つけ、“概念”を奪っていく侵略者(宇宙人)ということで、本当にそのままの意味です。

宇宙人から“概念”を奪われた人間は、その“概念”を理解できなくなります。「自由」を奪われた者は「自由」の意味が理解できなくなる、というワケです。

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 また、舞台となる町(おそらく日本海に面した東北のどこか)は、隣国からのミサイル攻撃の脅威にさらされており、戦争突入間近であることが語られます。『「侵略」されつつある隣国との緊張状態』と、『「侵略準備中」である宇宙人との関わり方』というように、この舞台には多くの「対比」が隠されています。

「家族」の“概念”を奪われ攻撃的になり、所有権に敏感になる女性。
「自他」の“概念”を奪われ、他人に同調し続ける憎めない人物になる男性。

早いうちに「家族」の“概念”を手に入れ、穏やかな宇宙人・真治。
「時間」や「自由」などの“概念”しか持っておらず、攻撃的な宇宙人・天野。

このような「対比」によって、問題の本質を抉り出していきます。

練り込まれたエピソードにより、「自由」とは?「自分」とは?と投げかけられるのですが、最後に「愛」について重たい一撃を浴びせてきます。

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 夫・真治が宇宙人であり、そろそろ帰還(=真治の死)しようとしていることを知った鳴海は、真治に自分から「愛」の“概念"を奪うように言います。
真治を失うくらいなら、「愛」なんて分からない方が良いと…。

最初は嫌がる真治ですが、最終的に鳴海から「愛」を奪います。
初めて「愛」を知り、その大切さに気づくと同時に、それを最愛の人から奪ってしまったことに、真治は愕然とし、その場で慟哭します。
一方、鳴海は「私、意外と平気だよ」と明るく振る舞うのでした。

ラストシーン。「愛」を理解した真治が「宇宙人=侵略者」としての目的に対して、疑問を抱いた場面で終演となります。

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「愛」に目覚めた真治のその後の行動は描かれていませんが、残りの2体の宇宙人を止めに行くことは 明らかです。
さらに劇中で、「所有」の“概念”を奪われ反戦運動に目覚めた男性から「人種や国境の“概念”をインターネットなどのメディアを使って、世界中から奪ってしまえば、地球が一つにまとまり、宇宙人にも対抗できる」と提案されるのですが、これを実際に行動に移すのではないでしょうか?
これってまさに「愛は地球を救う」物語ですよね。

24時間テレビで感動ドラマやマラソンを見せられても何一つ響いてこない。
しかし、「SF✕演劇」という圧倒的な虚構だからこそ、このメッセージの本質を抉り出し、届けることができるのだと思います。

また「愛」の“概念”を奪われた状態にも関わらず、泣きじゃくる真治を抱きしめる鳴海の姿にも一つの真理を感じます。
「愛」が分からないはずの鳴海の行動に、観客は本当の「愛」のカタチを見ます。
つまり「愛」という“概念”を失っても“行動”は起こせる。「愛」とは“概念”ではなく“行動”なのだと。
こんな気恥ずかしいことも、虚構のなかで描けば強いメッセージになり得ます。 

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また、宇宙人たちが乗っ取った人格の記憶データにアクセスして人間界に溶け込もうとするのですが、この描き方も現代の問題を射程に捉えています。
最初は記憶データへのアクセスに慣れておらず、違和感しかない宇宙人のコミュニケーションも、慣れて人格を理解していくうちに、どんどん人間臭くなっていきます。
これは「データベースの再生装置」でしかなかった存在が、「データベースにアクセスするAI」に近づいている、と読み替えることができます。

本人の記憶を持ち、本人の人格を学習したAIは、本人なのか?というスワンプマン的問題にアプローチしているように感じられました。
「愛」というエッセンスまで加わった宇宙人・真治と、元々の真治の間に、違いはあるのでしょうか?

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最後に役者の話をすると、イキウメのメンバーは皆さん素晴らしいのですが、安井順平さんがバツグンでした。
安井順平さんは、毎回役どころとして「あっちの世界と、こっちの世界」の橋渡し役を担っているのですが、今回も彼の存在が物語の潤滑油として効いていました。
「一般人として“怪奇”を疑うが、時間を追うごとに“怪奇”を信じ、世界との関わり方を変える」という、観客の分身として動いてくれる彼のお陰で、込み入った物語も引っかかることなく飲み込めます。本当に稀有な存在だと思います。

 

映画でイキウメが気になった方は、ぜひこのスケールの世界感を数人で作り上げてしまうナマの舞台にも足を運んで頂ければと思います。
シアタートラムで観るイキウメにハズレ無し!

原作はこちら↓