郵便配達は二度チケットをもぎる

演劇未経験者が、駄文をこねます。

「青いポスト」感想:アマヤドリ

私達の町にもある「青いポスト」

f:id:mAnaka:20171124161831j:plain★★★★★★★★★☆ 9点

あらすじ

どこにでもある小さな町。とあるルールに支配されています。それは「年に一度、町で一番悪い奴を投票で決定し、選ばれた人間は消される」というもの。“セレクション”と呼ばれるこの制度により、町は平和を保っています。

投票は、事前に予想が発表されます。近年、予想の精度が上がってきており、ほぼ外れない。そのため、選ばれる人はある程度の心の準備ができます。

町の外れに住む双子が物語の主人公。事前予想では姉・ユリナが選ばれるはずだったのですが、ここに来て急に妹・カンナが事前予想の1位に。そこから物語がスタートします。

女性だけで演じられる、アマヤドリらしい設定の舞台。
善と、偽善と、悪について考えさせられます。

<ネタバレ>選ばれたのは“悪”なのか?

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双子は複雑な家庭環境で育っているのですが、性格がねじ曲がっているわけではなく、素直に「やりたいことが、やりたい。やりたくないことは、やりたくない」という信念のもと、行動してしまいます。
このジャイアン的な行動が、昔からイジメっ子体質として捉えられており、今回の投票結果につながっていました。

“セレクション”が浸透しているため、相手を慮るのが当たり前の社会で、我を通す存在は“悪”と捉えられてしまいます。

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投票当日、事前予想から変わらず妹・カンナが消される対象となります。しかし、実際に一番票を集めたのは姉・ユリナでした。
カンナはわざとバレる不正を行い、自らを犠牲にすることで、姉・ユリナを救ったことが判明します。
不正を働いたものは、その年の“悪”として消される。
そのルールにより、カンナは消されたのでした。

それを知ったユリナは、見つかるはずもないカンナを探し回ります。

そんな中、アマヤドリ得意の群舞が始まり、舞台は幕を閉じます。

群舞でも、ユリナは他の人とうまく合わせることができずズレていきます。
まるで双子の生き方を象徴するように…。

おそらく、来年はユリナが“セレクション”で選ばれるという余韻を残しながら…。

私たちの町にもある「青いポスト」とは?

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“セレクション”は“悪”を炙り出すシステムではなく、「分かりやすい“悪”」を全員で指差し合うシステムでしかありませんでした。目に見えない“悪”を裁くことはできない。
町人たちを“善者”ではなく“偽善者”にするものでした。

群舞に入る前に交わされる、刈谷とミズキの会話にこの舞台のテーマが凝縮されています。

刈谷「私、実は本が読めないの」
ミズキ「でも、いつも本読んでるじゃない?」
刈谷「本読んでるフリしてる方が、頭良さそうに見えるから」
ミズキ「頭良さそうに見えるフリしている時点で、かなり頭悪いから」
刈谷「そうか(笑)」

全体の雰囲気からすると、なんとも間の抜けた会話なのですが、舞台のテーマを理解した後だと、とても笑えるものではありません。
「“善”のフリしている時点で、かなり“悪”だから…」と。

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はみ出し者を叩くことで、多数派の安定を図る。
これは、この町だけではなく、いまの日本でも起きていることです。
なにかあればすぐ炎上し、全員で袋叩きにしにいく。
「年に一度」とは言わず、日本では毎日投票が行われているのではないでしょうか?

そう考えた時に、「青いポスト」とは、「青い鳥がアイコンの、ツイートをポストする」あのソーシャルメディアに読み替えられるような気がします。

「青いポスト」は、私達のすぐ身近にあります。
私達は、ユリナを赦せるでしょうか?

アマヤドリの新しいトライとは?

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今回の舞台で、アマヤドリが行った新しい試みがありました。
舞台上で、コロコロと場面を転換し、細切れにしながら物語を紡いでいくということ。

分かりやすい例を挙げると、“セレクション”管理委員会の委員長である水口は、委員会メンバーの前では高圧的な女性、友達の前では悩み多き女性、という顔を使い分けています。この二面性を、まるでスイッチャーで切り替えるように、舞台上で展開。

演劇なのに、まるでテレビや映画でシーンを繋げて編集しているような演出になっています。
しかも、登場人物の統一性を役者の身体性1つで表現しなければいけないので、相当な演技力が求められます。(下手すると、イマどっちの水口?となり兼ねない)

このスイッチングも、先程あげたソーシャルメディア上ので、アカウントの使い分けのように感じました。誰しもが、表のアカウントと、裏のアカウントを持つように…。

 

ポストトークで語られていましたが、ラストの群舞(ユリナだけみんなからズレていく)は、物語が生まれる前から完成していたそうです。様々なモノが積み重なって物語ができるという、なんともサブイボなエピソードです。

全体としては、女性だけで濃密に仕上げ、物語中からも男性を排除したことで、テーマ性がソリッドになっていました。もう一つの「崩れる」は、男性だけで演じながら、どこまでも女性の影を感じる舞台になっており、この対比も面白かった。

 

2つの舞台を通じて「新しいアマヤドリ」を表現されていましたが、過去作に比べてテーマがダイレクトに伝わってくる作りになっていました。12/3まで公演は続きますので、興味のある方はぜひ「新しいアマヤドリ」を目撃しに行ってください。

「リアリティ」と「映像的な演出手法」の2つの武器を手に入れた、今後のアマヤドリに大注目です。

 

「崩れる」の感想はこちら。

theaterist.hatenablog.com

「崩れる」感想:アマヤドリ

人間関係という共犯関係

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あらすじ

閉鎖が決まっている山奥の宿「クモの巣」。そこに大学からの仲良し男子4人組が泊まりに来る。宿の従業員含めて全員が男性というなか、外は台風で大荒れに。とある告白をキッカケに、仲良し4人組の関係も荒れてくる。

4人組は数ヶ月前にキャンプを計画していた。女性も4人呼び、4対4のキャンプコンパを予定したいたのだが、女性側に一人ドタキャンが出てしまったためキャンプの計画がお流れに。しかし実際には、幹事であった針谷を除く3対3でキャンプを行っており、キャンプに参加した猪俣は、あろうことか針谷が狙っていた「ミライちゃん」とデキてしまったと言う。その事実を「クモの巣」で突然告げられた針谷は、激昂。会社を辞めると騒ぎ始めた…。

アマヤドリらしくない、男性のみの会話劇。
不在の女性を巡った“崩壊劇”が幕を開けます。

<ネタバレ>一番(気持ち)悪いのは…?

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その後も「ミライちゃん」をめぐり、男たちが言い争いを繰り広げます。
「なんでこいつと仲良かったんだっけ?」と思えてくるほど、お互いの嫌なところが見えてくる。人間の関係なんて、所詮は危うい“共犯関係”でしかないということを、嫌というほど見せつけてきます。

ほぼ崩壊しかけているのに、それでも修復しようとする姿に、男同士ならではの気持ち悪さを感じました。
(個人的にも高校からの仲良し6人組がおり、とても他人事ではなく…。)
女性同士なら、スッパリ切ってしまうのではないのかと…。

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針谷は猪俣が「ミライちゃん」を奪ったことをすでに知っていた、というのが舞台のオチ。針谷は会社で一人リストラの対象を選ぶ必要があり、この「ミライちゃん」事件をダシに、猪俣に自主退職してもらおうと画策していたと告白し、関係が完全に破綻。猪俣は「帰る」と言い残し、台風のなか出ていってしまいます。

しかし、この針谷の告白も強がりにしか聞こえず、痛々しい。
「ミライちゃん」への固執をさらに、さらけ出す結果になってしまいます。

そんな針谷に「クモの巣」の主人である園田は、「自分を卑下し続けるのは、しょせん自分を守り続けていることでしかない」と語りかけます。
まるで観客の気持ちを代弁してくれるような園田ですが、頭の上にはプレゼントとしてもらった王冠をかぶったまま説教していているという、何とも居心地の悪い状態…。
作・演出の広田淳一さんも語っておりましたが、「裸の王様」感が演出されております。

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人間関係において「正義」など存在しない、ということが如実に語られていると思います。人間関係とは、どこまで行っても共犯関係でしかないと。

園田と針谷が語らうなか、雨足はどんどん激しくなり、舞台は暗くなっていきます。

園田「もたないかもな…」
針谷「え?」
園田「あ…」
という不吉な会話を残し、完全に暗転し、舞台は終わります。

「もたなかった」のは、人間なのか、建物なのか…。

アマヤドリの新しいトライとは?

今回の舞台は、女性のみで演じる「青いポスト」との2公演になっており、2つ合わせて「新しいアマヤドリ」と銘打たれています。

そんな「崩れる」で新しくトライされたこととして、広田淳一さんは 「会話の意図的な重ね合わせ」を挙げています。

ふつうの会話を録音して聞いてみると、意外なほど会話が重なっている。
相手が話し終わる前に話し始めたり、相手が入ってきても止めなかったり…。
確かにその通りです。

その「会話の重なり」をあえて舞台で再現したと言います。
どこからどこまでが「重なる」かを、台本でも細かく指定されており、役者は困惑したとか。しかし、舞台を見ている方は、ほぼ違和感なく聞くことができます。いつも体験していることだからでしょう。

アマヤドリの舞台には欠かせない“群舞”も無く、全編会話だけで繰り広げられるリアル劇。このリアリティを手に入れたアマヤドリは、この武器をどう料理していくのでしょうか?

 

女性を“不在”にすることで、より女性の存在を感じさせる舞台でした。
いつも物語を駆動するのは、女性ですね。

 

「青いポスト」の感想はこちら。

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「散歩する侵略者」感想:イキウメ

イキウメ的「愛は地球を救う」

f:id:mAnaka:20171106145042j:plain★★★★★★★★★★ 10点

あらすじ

海に近い町に住む、真治と鳴海の夫婦。真治は数日間の行方不明の後、まるで別の人格になって帰ってきた。素直で穏やか、でもどこかちぐはぐで話が通じない。不仲だった夫の変化に戸惑う鳴海を置いて、真治は毎日散歩に出かける。町では一家慘殺事件が発生し、奇妙な現象が頻発。取材に訪れたジャーナリストの桜井は、“侵略者”の影を見る_。

今年、長澤まさみ松田龍平で映画化もされた、イキウメの代表作。
イキウメの真髄である“人間臭いSF”の傑作です。 

<ネタバレ>愛は地球を救うのか?

この舞台は、「地球侵略を狙う宇宙人3体が、地球人の人格を乗っ取り偵察していた」と文章にするとチープこの上ない話が繰り広げられます。主人公・真治も宇宙人に乗っ取られた一人。
ただ、この舞台を名作足らしめている要素として、宇宙人は「地球人から“概念”を奪う」能力を持っているという設定があります。
宇宙人たちは、地球人に「所有」「自由」「自他」等々に関する質問をし、相手がイメージした“概念”を根こそぎ奪う存在として描かれます。タイトルにある「散歩する侵略者」とは、散歩しながら地球人たちを見つけ、“概念”を奪っていく侵略者(宇宙人)ということで、本当にそのままの意味です。

宇宙人から“概念”を奪われた人間は、その“概念”を理解できなくなります。「自由」を奪われた者は「自由」の意味が理解できなくなる、というワケです。

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 また、舞台となる町(おそらく日本海に面した東北のどこか)は、隣国からのミサイル攻撃の脅威にさらされており、戦争突入間近であることが語られます。『「侵略」されつつある隣国との緊張状態』と、『「侵略準備中」である宇宙人との関わり方』というように、この舞台には多くの「対比」が隠されています。

「家族」の“概念”を奪われ攻撃的になり、所有権に敏感になる女性。
「自他」の“概念”を奪われ、他人に同調し続ける憎めない人物になる男性。

早いうちに「家族」の“概念”を手に入れ、穏やかな宇宙人・真治。
「時間」や「自由」などの“概念”しか持っておらず、攻撃的な宇宙人・天野。

このような「対比」によって、問題の本質を抉り出していきます。

練り込まれたエピソードにより、「自由」とは?「自分」とは?と投げかけられるのですが、最後に「愛」について重たい一撃を浴びせてきます。

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 夫・真治が宇宙人であり、そろそろ帰還(=真治の死)しようとしていることを知った鳴海は、真治に自分から「愛」の“概念"を奪うように言います。
真治を失うくらいなら、「愛」なんて分からない方が良いと…。

最初は嫌がる真治ですが、最終的に鳴海から「愛」を奪います。
初めて「愛」を知り、その大切さに気づくと同時に、それを最愛の人から奪ってしまったことに、真治は愕然とし、その場で慟哭します。
一方、鳴海は「私、意外と平気だよ」と明るく振る舞うのでした。

ラストシーン。「愛」を理解した真治が「宇宙人=侵略者」としての目的に対して、疑問を抱いた場面で終演となります。

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「愛」に目覚めた真治のその後の行動は描かれていませんが、残りの2体の宇宙人を止めに行くことは 明らかです。
さらに劇中で、「所有」の“概念”を奪われ反戦運動に目覚めた男性から「人種や国境の“概念”をインターネットなどのメディアを使って、世界中から奪ってしまえば、地球が一つにまとまり、宇宙人にも対抗できる」と提案されるのですが、これを実際に行動に移すのではないでしょうか?
これってまさに「愛は地球を救う」物語ですよね。

24時間テレビで感動ドラマやマラソンを見せられても何一つ響いてこない。
しかし、「SF✕演劇」という圧倒的な虚構だからこそ、このメッセージの本質を抉り出し、届けることができるのだと思います。

また「愛」の“概念”を奪われた状態にも関わらず、泣きじゃくる真治を抱きしめる鳴海の姿にも一つの真理を感じます。
「愛」が分からないはずの鳴海の行動に、観客は本当の「愛」のカタチを見ます。
つまり「愛」という“概念”を失っても“行動”は起こせる。「愛」とは“概念”ではなく“行動”なのだと。
こんな気恥ずかしいことも、虚構のなかで描けば強いメッセージになり得ます。 

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また、宇宙人たちが乗っ取った人格の記憶データにアクセスして人間界に溶け込もうとするのですが、この描き方も現代の問題を射程に捉えています。
最初は記憶データへのアクセスに慣れておらず、違和感しかない宇宙人のコミュニケーションも、慣れて人格を理解していくうちに、どんどん人間臭くなっていきます。
これは「データベースの再生装置」でしかなかった存在が、「データベースにアクセスするAI」に近づいている、と読み替えることができます。

本人の記憶を持ち、本人の人格を学習したAIは、本人なのか?というスワンプマン的問題にアプローチしているように感じられました。
「愛」というエッセンスまで加わった宇宙人・真治と、元々の真治の間に、違いはあるのでしょうか?

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最後に役者の話をすると、イキウメのメンバーは皆さん素晴らしいのですが、安井順平さんがバツグンでした。
安井順平さんは、毎回役どころとして「あっちの世界と、こっちの世界」の橋渡し役を担っているのですが、今回も彼の存在が物語の潤滑油として効いていました。
「一般人として“怪奇”を疑うが、時間を追うごとに“怪奇”を信じ、世界との関わり方を変える」という、観客の分身として動いてくれる彼のお陰で、込み入った物語も引っかかることなく飲み込めます。本当に稀有な存在だと思います。

 

映画でイキウメが気になった方は、ぜひこのスケールの世界感を数人で作り上げてしまうナマの舞台にも足を運んで頂ければと思います。
シアタートラムで観るイキウメにハズレ無し!

原作はこちら↓

「極楽地獄」感想:柿喰う客@柿フェス

またひとつ、タブーが生まれる

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あらすじ

赤坂にあるホテルの新人研修最終日。
研修の最後にワークショップが始まる。講師ナガシマを中心に行われるそのワークショップとは、あるリゾートホテルで起こった「芋煮事件」というおぞましい惨劇を再現するモノであった。
東日本大震災と同時に仙台で起こったその事件は、どのような結末を迎えるのか?

今回の柿フェスで唯一の新作であり、初演が仙台で行われた問題作です。

<ネタバレ>描きたかった本当のタブーとは?

メインビジュアルから、すでにネタバレしているのですが、いわゆる「カニバリズム」ものです。
「芋煮事件」の舞台となった、仙台の山奥にある会員制のホテル「パラディーゾ」は、供養のため故人の遺体を調理し、親族に振る舞うサービスを行っていました。

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「屠り(ほふり)」と名付けられたこの儀式を執り行うホテルマン達は「屠り人(ほふりびと)」となり、風習の継承者となっていきます。

この仕事に誇りをもつ彼らは、食人に惹かれる「肉屋の息子」という少年の登場により、暴走。「芋煮事件」と呼ばれる所以となった「被災し亡くなった母親を芋煮の炊き出しにして振る舞う」という事件を起こし、すべてが発覚。ホテルは解散することになります。

しかし、話はそれで終わらず、赤坂のホテルに戻ってきます。ひょんなことから、「パラディーゾ」の会員名簿を手に入れたホテルの経営陣は、自分たちのホテルで「屠り」を行うことを決定します。

この研修の目的が、新人たちを「屠り人」にする第一歩だったということが判明し、幕を閉じます。

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何はともあれ、「永島敬三がスゴい」の一言に尽きる。
もう彼を見せるために、この「極楽地獄」はあるのではないかと感じさせるほどの存在感。ザ・柿喰う客。ザ・圧倒的フィクション。
柿フェスに看板俳優である玉置玲央が出なかったのは、永島敬三を一つ上のステージに上げるためだったのでは?と勘ぐってしまうほど。
それくらい、柿フェス全体を通して、キレキレでした。

 

話を舞台に戻すと、「カニバリズム」を供養と位置づけ、弔う側からの目線でストーリーを組み立てるのは面白かったです。「屠り人」は完全に「おくりびと」を意識していますし。

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またTwitter等で感想を見ていると、散りばめられた数々のタブーよりも、「東日本大震災」を絡めたことに違和感・不快感を感じている人が多いように見受けられました。
脚本・中屋敷法仁の意図は測りかねますが、あえて「特別視」しないというか、タブーのなかに溶け込ませて描くことに、本質があったように思います。

本当に「震災」について描きたいのであれば、震災によって「パラディーゾ」を崩壊させるとか、「屠り」どころではなくなる「屠り人」の姿を描くはずです。
むしろ、あの「震災」にも揺るがない風習やタブーの強さを描きたかったのではないでしょうか?
不謹慎な言い方になるかもしれませんが、「震災=場転の装置」くらいにしか捉えないことに意味があったように思います。
それを“不快だ”と感じる人がいるのも、また事実なのでしょうが。

東日本大震災」に触れるには、深い配慮と慎重な姿勢が必要である。軽々しく触れてはいけない。そういうタブーが、日本に新たに生まれている。そんなことを軽やかに描き出しているのではないでしょうか?

 

この公演が、仙台から赤坂に場所を移したように、「カニバリズム」も仙台から赤坂に移動してきました。
強力な感染力をもつタブーは、ワークショップから新人ホテルマンたちに感染したように、舞台を観る観客たちにも染み出しているのでしょうか?

柿フェスまだまだやってるよ

これにて柿フェス全4作品の観劇が終わりました。
メンバーが増えたことによる重厚な構成はもちろん、照明や音響も素晴らしかった。
やはり柿喰う客は、これくらいのサイズ感の劇場がよく似合う。

柿フェスは11/5までやっているので、興味がある方はぜひ劇場へ。
他の作品の感想はこちら。

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「無差別」感想:柿喰う客@柿フェス

差別なき“無差別”の世界で待っていたものは?

f:id:mAnaka:20171017121303j:plain★★★★★★★★★☆ 9点

あらすじ

「神も、仏も、獣も、人も…」
戦後日本の思想転換を題材に描き出す、おぞましい因果の物語。
第57回岸田國士戯曲賞最終候補作品、7名の女優による魂のリバイバル

2012年に男女混合の劇団員だけで上映された作品を、新メンバーを加えた女優のみで再演した舞台。柿喰う客の代表作であり、個人的にも大好きな作品です。

オリジナル版はYoutubeにアップされています。

www.youtube.com

戦前から戦後を股にかけた物語。赤犬の屠殺を生業とし、“狗”と呼ばれ忌み嫌われる一族に生まれた「狗吉」と、その妹「狗子」。「狗吉」は、「狗子」を赤犬殺しの“穢れ”から守るため、仏を彫らせ、写経をさせ、汚れ仕事はすべて自分で請け負いながら育てていきます。

そんな中、太平洋戦争が勃発。“ヒト”になることを諦めきれない「狗吉」は、大日本帝国の兵士として出兵することを望みます。「狗吉」を人外扱いする村人たちは、村のご神木である楠木の枝を持ち帰ってくれば出兵させてやると持ちかけるのですが…。

さらにあらすじ

話は一転し、山の中へ。樹齢1000年の楠木は、天神様から山の神に任命されます。モグラの一族はこれを祝って、生まれたばかりの“メクラ”で“カタワ”の娘を生贄に捧げます。生贄になることを拒絶した「モグラの娘」は結果的に山の神になった「大楠古多万(オオグスノコダマ)」を殺してしまいますが、代わりに「不見姫神(ヒミズヒメ)」として山に君臨します。

「狗吉」は「不見姫神」に殺された「大楠古多万」の枝を持ち帰り、無事出兵していきます。

村に残された「狗子」は、その“穢れ”の無さから、「不見姫神」の巫女となり、「不見姫神」から新しい“奉納舞”を作るよう命じられます。赤犬の子犬であり「狗子」が育てた“人之子”が、盲目の舞踊者「真徳丸」を村に連れて帰り、「不見姫神」の“奉納舞"が完成します。

このシーンがサブイボ。
オリジナルの「無差別」でも流れたBGMの中、唯一初演時と今回の両方に出演する葉丸あすかさん演じる「真徳丸」が村人を引っ張りながら“奉納舞”を舞う。これは、新メンバーたちを舞台上で引っ張る、古くからのメンバーである葉丸あすかさん本人の姿とリンクして、本当に美しいです。

f:id:mAnaka:20171017190146j:plain※本当はこの“奉納舞”ではないのですが、、、

一方、死んだはずの「大楠古多万」は怨念が溜まり、きのこの化物「怨茸(ウラミダケ)」という祟り神になってしまいます。ここが唯一コミカルなシーンなので、気を抜きがちなのですが、その後の展開で見事に裏切られることとなります。

「狗吉」は戦場では死ねず、村に生還します。
しかし、そこに待っていたのは原爆の黒い雨で被爆してしまった「狗子」の姿でした。
「狗吉」が戦場を逃げ回っている時、「怨茸」はきのこの化物として、最悪の“きのこ雲”を呼び起こしていたのです。

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“穢れ”を知らずに育ったはずなのに、黒い雨の“穢れ”を受けた「狗子」。兵士として死ねず、“穢れ”た一族の“狗”に戻ってしまった「狗吉」。村人は“穢れ”た二人を、大穴に落として殺そうとします。息も絶え絶えの二人は、穴の中で新しい生命を宿そうとします。そこから生まれてくるのは、あたらしい世界か、それとも祟り神か…。

<ネタバレ>差別を失うとは?

題名である「無差別」とは、すべてを平等に壊す“核”のことでした。
それまで“神”であったはずの天皇を、人間に引きずり下ろしたのも“核”。 
皮肉にも「狗吉」が望んだ、差別なき世界を実現したのは“原子力の神様”。

東日本大震災を経て、日本人にとっての“核”は空から降ってくるものではなく、内在する暴力になっています。そう考えると、より日本的“八百万の神”に近くなっているのかもしれません。

本来ポジティブな意味でもおかしくない「無差別」というコトバの後ろには、恐ろしいワードが続きます。「爆撃」「テロ」「殺人」…。
“核”によって「無差別」がもたらされた世界は、この後、コトバ通り、恐ろしいコトが続いていくのでしょうか?

ラストシーンが、その答えになっている気がします。
「真徳丸」が、始まりのシーンのセリフをひっくり返した語りを行い、舞台は終わります。
始まりと終わりがひっくり返ったように、「狗吉」と「狗子」の因果もひっくり返り、幸せな新しい世界を産み落とすのではないでしょうか。

<始まりのセリフ>

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<終わりのセリフ>

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※「となりの柿喰う客」(http://kaki-kuu-kyaku.com/special.html)より抜粋

 

オリジナルとの対比で言うと女優のみで上演されたことで、より物語性が際立っていました。初演のときは、「狗吉」を演じる玉置玲央さん始め、俳優全員が異常な身体能力で暴れまわる、圧力のある舞台でした。
このあたりは女体シェイクスピアなど、女優の可能性を引き出すことに長けた中屋敷法仁さんらしいなと。

そういう意味では、女性でありながら「狗吉」を演じきった長尾友里花さんはとんでもない役者ですね。

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また、オリジナルでは舞台中央にジャングルジムにも似た舞台装置がありました。これが、神に捧げる祭壇のような役割を果たしており、より奉納劇としてのイメージを強くしていました。

f:id:mAnaka:20171017191711j:plain※画像はオリジナル公演のもの

 このジャングルジムの役割を、長身スレンダーの原田理央さん が自分のカラダを見立てて演じたときには笑いそうになりましたが、見慣れていくうちに美しさの方が勝ってくるので不思議です。

 

 

長くなりましたが、この舞台、濃さに反して80分と比較的ショート。
これだけの内容をスピード感持ってエンタメ化してしまう技量はさすがの一言。
またいつか、再演してくれることを願って…。

 

「流血サーカス」感想:柿喰う客@柿フェス

舞台と客席の欺瞞

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★★★★★☆☆☆☆☆ 5点

あらすじ

サーカス団に売り飛ばされた少年の波瀾万丈な冒険譚。
エンターテイメントを愛する全ての人に送る怪奇娯楽作品。
東日本大震災から一週間で創作&上演された問題作を新旧メンバーで再演。

餓死寸前の兄妹が人さらいに攫われて、兄はサーカス団に、妹はお金持ちの家に売られるというメルヘン童話さながらのストーリーです。
兄はサーカス団で人気者になり、いつか妹を迎えに行くと誓うのですが…。

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<ネタバレ>客席は安全ではない

兄が売られたサーカス団は、実は「演者の失敗や事故をウリにした流血サーカス団」であったから、さ~大変。
しかも、兄を探しに「流血サーカス」に来た妹は、あまりにもショッキングな光景に、精神に異常を来し、スプラッター趣味の“猟奇的な彼女"になってしまうという超展開。
兄は「本当のエンタメ」を見せることで、妹の目を覚まそうと奮闘します。

しかし、兄の努力むなしく「妹の狂気」は止まらず、ついに自ら兄を殺害。
「流血サーカス」も、金貨1枚で客席からナイフを投げられる権利付きの、より邪悪な見世物になってしまい幕を閉じます。

ストーリーとしては、こんな感じで怒涛の展開を繰り広げていくのですが、この舞台のポイントは「ふしだらな女」という登場人物。
本編には全く関係なく、いちいち舞台から客席に絡んでくる役どころ。
妖精パック的な役割を持ったトリックスターです。

f:id:mAnaka:20171016173021j:plain※演じる加藤ひろたかさんが素晴らしい。

最後の最後、「ふしだらな女」が客席に向かって語りかけるのですが、この内容がかなり鋭利です。

いわゆる“第四の壁"的なことなのですが、
果たしてナイフを投げる客席は本当に安全なのか?
本当に演者が客席に向かってナイフを投げることはないのか?
自分が客席だと思っているものは逆で、本当は舞台なのではないか?
ということを不気味に説いてきます。

狭い客席でぎゅうぎゅうになって、身動きが取れない中でこのセリフを聞いていると、本当にナイフを眉間に突き立てられているような気持ちに…。

東日本大震災の直後に創作された演劇ではありますが、その後の日本を予言するような内容ですね。
炎上に次ぐ、炎上。燃やしていると思っていた方が、次の瞬間には燃えている。
ちょっとしたことで自分が全世界の矢面に立たされてしまう可能性を持っている。
まさしく、舞台に向かって投げたナイフがブーメランのように戻ってくる日常です。

たかだか数十センチの高さしか違わない「舞台」と「客席」の欺瞞を鮮やかに描いています。

 

60分という短い上演時間で、エネルギッシュに展開される怒涛の舞台ですので、興味のある方はぜひ。新メンバーも躍動しています。

「関数ドミノ」感想:イキウメ プロデュース

かすかな希望の描き方

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★★★★★★☆☆☆☆ 6点

あらすじ

とある都市で、奇妙な交通事故が起きる。
信号のない横断歩道を渡る歩行者・田宮尚偉(池岡亮介)のもとに、速度も落とさず車がカーブしてきた。
しかし車は田宮の数センチ手前で、あたかも透明な壁に衝突したかのように大破する。
田宮は無傷、運転手の新田直樹(鈴木裕樹)は軽傷で済むが、助手席に座っていた女性は重傷を負ってしまう。
目撃者は真壁薫(瀬戸康史)と友人の秋山景杜(小島藤子)、左門森魚(柄本時生)の3人。
事後処理を担当する保険調査員・横道赤彦(勝村政信)はこの不可解な事故に手を焼き、関係者を集めて検証を始める。
すると真壁が、ある仮説を立てるのだった。
その調査はやがて、HIV患者・土呂弘光(山田悠介)、作家を目指す学生・平岡泉(八幡みゆき)、真壁の主治医・大野琴葉(千葉雅子)をも巻き込んでいく。
はじめは荒唐無稽なものと思われた仮説だったが、それを裏付けるような不思議な出来事が彼らの周りで起こり始める――。

ざっくり感想

この舞台には「ドミノ」という概念が登場します。自分が望んだことが自然とかなってしまう特殊な人物のことで、舞台上では“期間限定の神様"という表現もされていました。

この「ドミノ」という存在が、本当にいるのか?実在するとして、真壁が唱えるように「森魚=ドミノ」なのか?ということを主軸に進行していきます。

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この脚本のうまい所は、精神科医・大野の存在で、「自分がうまくいかないことを、ドミノという存在を妄想することで現実逃避する症状」として「ドミノ幻想」という一種の精神病の存在を提示することです。

これによって、観客は「真壁=精神疾患」という可能性まで考える必要がでてきます。

ちなみに「ドミノ幻想」はフィクションですが、あまりのリアリティに終わった後、思わず検索してしまうほどです。

<ネタバレ>救いはどこにあったのか?

ここからは完全にネタバレですが、オチは「森魚=ドミノ」ではなく、「真壁=ドミノ」であったことが判明することにあります。
森魚が起こしていた奇跡は、「森魚=ドミノ」であることを望む真壁が間接的に起こしていたことが判明します。まさに森魚は、真壁の能力が生み出した“関数ドミノ"だったわけです。

話は少しそれますが、「関数ドミノ」には2009年版と2014年版が存在します。
今回の舞台は、2009年版をベースにしていることが脚本の前川知大によって語られていますが、何が違うかというと、

●2009年版
→今回と同じく、ドミノであることに気づいた真壁は自分の能力で傷つけてしまった秋山を必死に救おうとするシーンで終わる。

●2014年版
→登場人物たちの年齢がもっと高く、真壁は自分がドミノであったことに絶望します。
もう人生が取り返しのつかない所まで来てしまっていたからでしょう。
真壁は客席に向かって「俺を見るな!」と絶叫して、舞台は暗転。そのまま終了します。

2009年版を選んだのは、瀬戸康史を始め演者が若く、よりラストに希望が残る方を選択したと、前川自身が語っています。

ただし、今回の舞台で狙い通り「かすかな希望」を描けていたかという部分には疑問が残ります。

というのも、ドミノを追うメンバーに人間味が薄く、感情移入のポイントが少ない。これはバックグラウンドなどを描かずに、スピード感をもって舞台を進めたいという狙いでの演出だと思うのですが、ラストの真壁が秋山を救おうとするシーンにすら人間味が感じられず、どこかシュールな画になってしまっています。

それを見守る横道を始めとしたメンバーも、暗闇の中でボーッと突っ立っており、そこに真壁が一歩を踏み出そうとする希望を感じさせません。
むしろ、彼らははじめから「真壁=ドミノ」であることが分かっており、その実証実験をしていた特殊な組織の人間である、くらいの設定を感じさせるモノでした。
※もちろん、そんな設定は存在しません。

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もし希望を描くのであれば、真壁と秋山の関係にスポットライトを当てるべきだったかなと。

秋山のある種、狂信的なまでに真壁に寄り添う姿は、「真壁=ドミノ」であったことを考えると、真壁が秋山をそばに置きたいという願いから実現されていたものであることが分かります。
秋山への“想い"が本物である以上、おそらくラストで秋山は助かるでしょう。

裏を返せば、唯一の理解者であるはずの秋山ですら「ドミノ」無くしては、獲得できなかったという絶望的な可能性も秘めていますが…。

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